人間は自らを含め、誰かを評価分析する際、タグによってカテゴライズしている。
例えば目の前に体が大きくて柄入スーツを着てサングラスでタバコをふかした男がいたら
多くの人々が以下のようなタグをつけるはずだ。
「ヤクザ」「犯罪の香り」「触らぬ神にたたりなし」
もちろん自分の立場によってはそのタグのつけ方は変わってくる。
自分が新宿の刑事であれば「ターゲット」になるかもしれないし、
同業者であれば「なわばり」「抗争」なんてタグがさらにつくかもしれない。
このタグによるカテゴライズという行為。
もちろんのことデメリットが存在する。
一つ目として、見当はずれなタグをつけてしまう場合。
実は先の人物、衣装を着たままの役者でした、なんてことも十分考えうる。
そういったものもあれば、単に偏見というのもあろう。
二つ目は重要だ。タグという性質上の「分解能の低さ」である。
言葉では分類できない場合のほうが多く、仕方なく自分の持つタグで分類してしまう。
ヤクザっぽいだけなのに、結局それをあらわすタグが無いため「ヤクザ」というタグで片付ける。
ここで恐ろしいのは「タグ」によるカテゴライズからのフィードバックである。
一度つけたタグから逆にその人を評価分析してしまうというのが恐ろしい。
勝手につけたタグのほうを優先してしまう、というわけだ。
「あぁ、あいつはヤクザだからねぇ」
その対象が自分であるとなおさら大問題である。
自分で自分につけたタグはたくさんあるはず。
「コミュニケーションが下手」「プレゼンは三流」「内気」「怒りっぽい」
いろいろあるだろう。
今までの経験でそのタグをつけたのであろうが、
そのタグが「正しいという前提」で自分を評価してしまうのは如何なものか?
今一度自分につけたタグを見直したいところである。
例えば目の前に体が大きくて柄入スーツを着てサングラスでタバコをふかした男がいたら
多くの人々が以下のようなタグをつけるはずだ。
「ヤクザ」「犯罪の香り」「触らぬ神にたたりなし」
もちろん自分の立場によってはそのタグのつけ方は変わってくる。
自分が新宿の刑事であれば「ターゲット」になるかもしれないし、
同業者であれば「なわばり」「抗争」なんてタグがさらにつくかもしれない。
このタグによるカテゴライズという行為。
もちろんのことデメリットが存在する。
一つ目として、見当はずれなタグをつけてしまう場合。
実は先の人物、衣装を着たままの役者でした、なんてことも十分考えうる。
そういったものもあれば、単に偏見というのもあろう。
二つ目は重要だ。タグという性質上の「分解能の低さ」である。
言葉では分類できない場合のほうが多く、仕方なく自分の持つタグで分類してしまう。
ヤクザっぽいだけなのに、結局それをあらわすタグが無いため「ヤクザ」というタグで片付ける。
ここで恐ろしいのは「タグ」によるカテゴライズからのフィードバックである。
一度つけたタグから逆にその人を評価分析してしまうというのが恐ろしい。
勝手につけたタグのほうを優先してしまう、というわけだ。
「あぁ、あいつはヤクザだからねぇ」
その対象が自分であるとなおさら大問題である。
自分で自分につけたタグはたくさんあるはず。
「コミュニケーションが下手」「プレゼンは三流」「内気」「怒りっぽい」
いろいろあるだろう。
今までの経験でそのタグをつけたのであろうが、
そのタグが「正しいという前提」で自分を評価してしまうのは如何なものか?
今一度自分につけたタグを見直したいところである。
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最近うわさの「ノイズキャンセル機能付きヘッドホン」であるが、
とうとう買ってしまった!!
http://www.audio-technica.co.jp/products/hp/ath-anc3.html
とはいっても私のはヘッドホンではなくイヤホンであるけれど。
結論から言うと「かなり有効」です!
今回使ってみて耳にも盲点があるということに気付いた次第です。
とりあえず視聴してみて、ヨドバシの騒音が消えてしまったことにビビる。
もちろん100%ではないが、あの喧騒が静かなオフィス並みになる。
実際ノイズキャンセルするまで気付かなかったが、
「街」という場所は全体として「ゴー・・・」という低音が常に響いている
車や足音、風等さまざまな音が混ざり合って実はとても大きな音に満ちているのだ。
あまりにいつも聞いているのですでに気付かなくなってしまっているようだ。
ノイズキャンセルで消えるのは、この定常的な「ゴー・・・」という音。
人の話し声や足音はちゃんと聞こえる。
私の場合はカナル式といって耳栓タイプなので、それだけでもかなり遮蔽性が高いので
さらに防音効果、ノイズ遮蔽効果が高い。
そして、iPodの付属イヤホンより圧倒的に音が良かった(笑)
ティンパニや大太鼓の響きと余韻がそのまま伝わってくる感じ。
まぁ今まで使用していたイヤホンが最悪だったんだろう。
わくわくしながら地下鉄へ。
はい、効果は歴然!
もちろん完璧ではありませんが体感してわかるほど地下鉄の走行音が減りました。
iPodの音量は今までの「半分」で十分なくらい。
加え、その半分の音量でも「オーディオブックの人の声」が明瞭に聞こえました。
今まで英単語や英語演説等をiPodに入れて持ち歩いていたのですが、
地下鉄ではほとんど聞き取れずあきらめていたところ。
すいていればいいが、朝のラッシュだと本を立ち読みするのもほぼ不可能。
今後の地下鉄での時間が勉強時間として確保できたわけだ。
ちなみにiPod等のオーディオ機器をつながずに、耳栓としてもかなり使えます。
パソコンのファンの音がほとんど聞こえなくなってウハウハ。
とまぁここまでべた褒めなのですが、もちろんデメリットもありますよ。
1.これをつけたまま自転車は危険すぎる
2.カナル式(耳にずっぽり差し込むタイプ)なので若干不潔感が漂う
3.自分の耳の穴にぴったり合ってないと、耳が痛くなるか、ノイズが入ってくるかする
4.結構高価(今回は「安め」の12800円でした)
5.耳に閉塞感がある (だんだん慣れてはくるのかも)
6.静かな反面、イヤホンのコード類が服とこすれる音が大きくきこえてしまうこともある
7.単4電池が必要(どれくらい持つかは不明。エネループで使ってみようかな・・・)
気になる人は実際に店頭で調べて、自分のオーディオプレイヤーにつないで見るといいです。
とうとう買ってしまった!!
http://www.audio-technica.co.jp/products/hp/ath-anc3.html
とはいっても私のはヘッドホンではなくイヤホンであるけれど。
結論から言うと「かなり有効」です!
今回使ってみて耳にも盲点があるということに気付いた次第です。
とりあえず視聴してみて、ヨドバシの騒音が消えてしまったことにビビる。
もちろん100%ではないが、あの喧騒が静かなオフィス並みになる。
実際ノイズキャンセルするまで気付かなかったが、
「街」という場所は全体として「ゴー・・・」という低音が常に響いている
車や足音、風等さまざまな音が混ざり合って実はとても大きな音に満ちているのだ。
あまりにいつも聞いているのですでに気付かなくなってしまっているようだ。
ノイズキャンセルで消えるのは、この定常的な「ゴー・・・」という音。
人の話し声や足音はちゃんと聞こえる。
私の場合はカナル式といって耳栓タイプなので、それだけでもかなり遮蔽性が高いので
さらに防音効果、ノイズ遮蔽効果が高い。
そして、iPodの付属イヤホンより圧倒的に音が良かった(笑)
ティンパニや大太鼓の響きと余韻がそのまま伝わってくる感じ。
まぁ今まで使用していたイヤホンが最悪だったんだろう。
わくわくしながら地下鉄へ。
はい、効果は歴然!
もちろん完璧ではありませんが体感してわかるほど地下鉄の走行音が減りました。
iPodの音量は今までの「半分」で十分なくらい。
加え、その半分の音量でも「オーディオブックの人の声」が明瞭に聞こえました。
今まで英単語や英語演説等をiPodに入れて持ち歩いていたのですが、
地下鉄ではほとんど聞き取れずあきらめていたところ。
すいていればいいが、朝のラッシュだと本を立ち読みするのもほぼ不可能。
今後の地下鉄での時間が勉強時間として確保できたわけだ。
ちなみにiPod等のオーディオ機器をつながずに、耳栓としてもかなり使えます。
パソコンのファンの音がほとんど聞こえなくなってウハウハ。
とまぁここまでべた褒めなのですが、もちろんデメリットもありますよ。
1.これをつけたまま自転車は危険すぎる
2.カナル式(耳にずっぽり差し込むタイプ)なので若干不潔感が漂う
3.自分の耳の穴にぴったり合ってないと、耳が痛くなるか、ノイズが入ってくるかする
4.結構高価(今回は「安め」の12800円でした)
5.耳に閉塞感がある (だんだん慣れてはくるのかも)
6.静かな反面、イヤホンのコード類が服とこすれる音が大きくきこえてしまうこともある
7.単4電池が必要(どれくらい持つかは不明。エネループで使ってみようかな・・・)
気になる人は実際に店頭で調べて、自分のオーディオプレイヤーにつないで見るといいです。
そりゃそうだろうと思いつつ、学業一辺倒なのもどうかと思う。
世界の「凄腕」達は大きく二手に分かれている気がする。
学業(大学のこと)なんて何の役にも立たないぜー!
いまどきの大学生は基礎力がまったく無い!もっとしっかり勉強に入れ込め!
こんな感じ。
両者ともごもっともな発言だと感じている。
前者に関しては身近な友人にも数名居て、実際わたしよりも若くして多くの成功を収めている。
ビルゲイツなんかは典型的な例だろう。
逆に後者はアメリカ等海外の学生を引き合いに出すこともある。
多くの海外大学は日本と違い、入学は簡単だが卒業がとことん大変らしい。
授業の集中度はもちろんのこと、日々の予習復習も欠かさない。
実際そうしないと卒業など出来ないというのが現実なんだとか。
それと比較して日本の大学が就職への予備期間的存在に成り下がったと嘆いているわけだ。
どちらが正しいということも無かろう。元々スタイルが違う。
両者の共通点は「必要ないなら大学へ入るな。大学へ入るならきちんと学べ」というところではないか。
つまり「就職への踏み台が大学なのではない」と言い換えられる。
ただ、大学で学業を大成させればそれでいいんだろうか?
そのための大学であるといわれればそれまでであるが、
自分の人生の責任は自分でとらねばならない。
大学でしっかり勉強したから社会でも大丈夫だという安易は発想は危険だろう。
もちろん、一つのことをとことんやりこんで大成させる・完成させるという行為は貴重だ。
それで十分か?実際何を学んだ?それをどう生かす?
本来であればこの問いは入学するときには既に答えの大枠を出しておかねばならないはず。
茂木健一郎氏の著書「ひらめきの導火線」にも載っていたが、
iPodの中身の半分は日本製のパーツであるにもかかわらず
iPodを作ったのは日本人ではないという不思議に関してである。
日本人は一つをやりこみ、性能を上げることは得意であるが
いろいろ組み合わせて新しいコンテンツと絡めるといった総合力が足りていないのだ。
モノづくり大国日本はモノづくりに特化してばかりだと、結局コンテンツや「繋げる力」の強いやつらに
「使われる存在日本」で満足してしまうことになるのだろう。
以上を踏まえて、日本の学生は学業一辺倒でいいんだろうか?
私自身の見解としては、金を稼ぐのが大事なように金を使うのも大事であるという発想から
何かを学ぶというところから、学んだものを使うスキルも同時に伸ばさねば意味が無いだろうということ。
加え、それを学ぶ場が大学でふさわしいのかどうなのかを今一度思考する。
結局は大学もツールに過ぎない。
世界の「凄腕」達は大きく二手に分かれている気がする。
学業(大学のこと)なんて何の役にも立たないぜー!
いまどきの大学生は基礎力がまったく無い!もっとしっかり勉強に入れ込め!
こんな感じ。
両者ともごもっともな発言だと感じている。
前者に関しては身近な友人にも数名居て、実際わたしよりも若くして多くの成功を収めている。
ビルゲイツなんかは典型的な例だろう。
逆に後者はアメリカ等海外の学生を引き合いに出すこともある。
多くの海外大学は日本と違い、入学は簡単だが卒業がとことん大変らしい。
授業の集中度はもちろんのこと、日々の予習復習も欠かさない。
実際そうしないと卒業など出来ないというのが現実なんだとか。
それと比較して日本の大学が就職への予備期間的存在に成り下がったと嘆いているわけだ。
どちらが正しいということも無かろう。元々スタイルが違う。
両者の共通点は「必要ないなら大学へ入るな。大学へ入るならきちんと学べ」というところではないか。
つまり「就職への踏み台が大学なのではない」と言い換えられる。
ただ、大学で学業を大成させればそれでいいんだろうか?
そのための大学であるといわれればそれまでであるが、
自分の人生の責任は自分でとらねばならない。
大学でしっかり勉強したから社会でも大丈夫だという安易は発想は危険だろう。
もちろん、一つのことをとことんやりこんで大成させる・完成させるという行為は貴重だ。
それで十分か?実際何を学んだ?それをどう生かす?
本来であればこの問いは入学するときには既に答えの大枠を出しておかねばならないはず。
茂木健一郎氏の著書「ひらめきの導火線」にも載っていたが、
iPodの中身の半分は日本製のパーツであるにもかかわらず
iPodを作ったのは日本人ではないという不思議に関してである。
日本人は一つをやりこみ、性能を上げることは得意であるが
いろいろ組み合わせて新しいコンテンツと絡めるといった総合力が足りていないのだ。
モノづくり大国日本はモノづくりに特化してばかりだと、結局コンテンツや「繋げる力」の強いやつらに
「使われる存在日本」で満足してしまうことになるのだろう。
以上を踏まえて、日本の学生は学業一辺倒でいいんだろうか?
私自身の見解としては、金を稼ぐのが大事なように金を使うのも大事であるという発想から
何かを学ぶというところから、学んだものを使うスキルも同時に伸ばさねば意味が無いだろうということ。
加え、それを学ぶ場が大学でふさわしいのかどうなのかを今一度思考する。
結局は大学もツールに過ぎない。
けっきょく色々な仕事を先延ばししてしまい、
期限ぎりぎりにすさまじいスピードでこなさなくてはならなくなる。
そんな経験が誰しもあるのではなかろうか。
何を隠そう、この私もその一人である(笑)
先延ばし癖を克服しよう、といった類の書籍や情報はたくさんあるが
実際小手先で克服できるものではないのかもしれない。
よくあるタイプの先延ばししてしまう「言い訳」は以下のようなもの。
1.まだ時間がある
2.面倒くさいから着手したくない
3.達成に不安があってそこから目を背けたい
2.に関しては本田直之氏が答えの一つを出している。
1と3.に関してはナポレオン・ヒルが答えの一つを出している。
答えはわかっている。
だが頭で答えを知っているだけでは話しにならん。
実際のところ人間が本当に困るのは1~3までが複雑に混ざり合った状態なのではないか。
特に好き好んでやろうとは思わないが難易度だけは高いプロジェクトに対して
準備期間をかなり多めに貰ったような状況。
想像するだけでも面倒くさそうだ(笑)
早めに着手するために必要なものの一つに「危機感・緊迫感」がある。
今日から着手したほうが良いと思いつつ、明日に先延ばししそうになったら。
これは私の経験から得たものであるが、
「次の日に持ち越した仕事は2倍の労力がかかってしまう」ということだ。
時間が2倍ということではない。ストレスや負荷、面倒くささなどのマイナス要素的労力のことだ。
2倍は極端ではないか?と思うかもしれないが、考えてみて欲しい。
100人の人間を1つのドアから外に出すことを想定しよう。
全員がドアに突進したら、全員が外に出るのに何分かかるだろう?
全員をきれいに1列に並べ、同じ歩調で駆け足させたら何分かかるだろう?
答えは明白だ。
スケジュール帳でもなんでもいい。
今日の日付のところに「1」と書く。明日の日付には「2」。明後日の日付にはその2倍の「4」。
なんと一週間でその面倒くささが「64」倍にもなってしまうではないか!
その1から64までの数字をじっくり眺めてみて欲しい。
今日が「1」であることの幸せを感じるはずだ。
よし、「今」着手しよう!!
Now or Never .
期限ぎりぎりにすさまじいスピードでこなさなくてはならなくなる。
そんな経験が誰しもあるのではなかろうか。
何を隠そう、この私もその一人である(笑)
先延ばし癖を克服しよう、といった類の書籍や情報はたくさんあるが
実際小手先で克服できるものではないのかもしれない。
よくあるタイプの先延ばししてしまう「言い訳」は以下のようなもの。
1.まだ時間がある
2.面倒くさいから着手したくない
3.達成に不安があってそこから目を背けたい
2.に関しては本田直之氏が答えの一つを出している。
1と3.に関してはナポレオン・ヒルが答えの一つを出している。
答えはわかっている。
だが頭で答えを知っているだけでは話しにならん。
実際のところ人間が本当に困るのは1~3までが複雑に混ざり合った状態なのではないか。
特に好き好んでやろうとは思わないが難易度だけは高いプロジェクトに対して
準備期間をかなり多めに貰ったような状況。
想像するだけでも面倒くさそうだ(笑)
早めに着手するために必要なものの一つに「危機感・緊迫感」がある。
今日から着手したほうが良いと思いつつ、明日に先延ばししそうになったら。
これは私の経験から得たものであるが、
「次の日に持ち越した仕事は2倍の労力がかかってしまう」ということだ。
時間が2倍ということではない。ストレスや負荷、面倒くささなどのマイナス要素的労力のことだ。
2倍は極端ではないか?と思うかもしれないが、考えてみて欲しい。
100人の人間を1つのドアから外に出すことを想定しよう。
全員がドアに突進したら、全員が外に出るのに何分かかるだろう?
全員をきれいに1列に並べ、同じ歩調で駆け足させたら何分かかるだろう?
答えは明白だ。
スケジュール帳でもなんでもいい。
今日の日付のところに「1」と書く。明日の日付には「2」。明後日の日付にはその2倍の「4」。
なんと一週間でその面倒くささが「64」倍にもなってしまうではないか!
その1から64までの数字をじっくり眺めてみて欲しい。
今日が「1」であることの幸せを感じるはずだ。
よし、「今」着手しよう!!
Now or Never .
先日うちのサークルメンバーがミスを犯した。
とあるロボットのボディーを作っていたのだが、
設計図にミスを記載し、そのまま他のメンバーたちがそれを元に
ボディー用のパーツを大量生産してしまったわけだ。
その数、パーツの量32個と一つ当たりのミス箇所4つで、計128箇所!!
そのミスは実際に組み立て作業が始まってやっと発覚した。
このロボットたちを使うイベントまであと2週間を既に切っている。
全てを作り直すのは時間的に見てかなり危ない。
がしかし、某人の言葉を借りれば「チャンスはピンチの顔をしてやってくる」ものだ。
このミスをいかに成功に導くかがメンバーたちの力の見せ所である。
すぐさまメンバー会議。
まずはミスの内容の把握から。
どうやらモーターを取り付けるネジ穴の場所を2mmほど間違って記載したようだ。
「じゃあ、このネジ穴がずれているのがどうして問題なの?」
この問いこそミスを成功に導く鍵となるのである。
この問いが無ければ、寸法を間違えたというだけで「失敗作」のレッテルを貼られてしまう。
具体的にどんなミスがどんな問題を起こすかを把握しなければ今後の成長も無い。
様々な話し合いを重ねた結果、
「ネジ穴がずれていても固定・設置には問題ない。むしろメンテナンスがしやすくなった」
「ミスー>偶然の発見ー>成功」
という流れを生むことが出来たのである。
加え、設計から作成までの行程において再度「他人」による確認する仕組みが必要であることも確認。
ミスは成功の母。
ミスから生まれる偶然の産物を侮る無かれ。
とあるロボットのボディーを作っていたのだが、
設計図にミスを記載し、そのまま他のメンバーたちがそれを元に
ボディー用のパーツを大量生産してしまったわけだ。
その数、パーツの量32個と一つ当たりのミス箇所4つで、計128箇所!!
そのミスは実際に組み立て作業が始まってやっと発覚した。
このロボットたちを使うイベントまであと2週間を既に切っている。
全てを作り直すのは時間的に見てかなり危ない。
がしかし、某人の言葉を借りれば「チャンスはピンチの顔をしてやってくる」ものだ。
このミスをいかに成功に導くかがメンバーたちの力の見せ所である。
すぐさまメンバー会議。
まずはミスの内容の把握から。
どうやらモーターを取り付けるネジ穴の場所を2mmほど間違って記載したようだ。
「じゃあ、このネジ穴がずれているのがどうして問題なの?」
この問いこそミスを成功に導く鍵となるのである。
この問いが無ければ、寸法を間違えたというだけで「失敗作」のレッテルを貼られてしまう。
具体的にどんなミスがどんな問題を起こすかを把握しなければ今後の成長も無い。
様々な話し合いを重ねた結果、
「ネジ穴がずれていても固定・設置には問題ない。むしろメンテナンスがしやすくなった」
「ミスー>偶然の発見ー>成功」
という流れを生むことが出来たのである。
加え、設計から作成までの行程において再度「他人」による確認する仕組みが必要であることも確認。
ミスは成功の母。
ミスから生まれる偶然の産物を侮る無かれ。
高度な思考を持つ生物は幼少期によく「遊ぶ」ことが確認されているが、
これは遊ぶという行為に非常に重要な要素が含まれていることを示している。
元々生物が遊ぶのは、その遊びの中から様々な「人間社会」を学ぶことにある。
擬似的な家庭環境の構築(ままごと)であったり、スポーツによるチームワークであったり。
家族以外のヒトとふれあい、学び、笑い、その中から幼少の人間たちは多くを吸収する。
多くの「遊ぶ」生物は成体になるとほとんど遊ぶことをやめるという。
おそらくそれ以上学ぶことが必要ではなく、むしろ実践がメインになるからであろう。
それとは対照的に人間は大人になっても質こそ異なれど良く遊ぶ生き物である。
人間は20歳までに学んだことだけで生きていけるような単純な社会には存在していない。
むしろ社会に出てからが学びの勝負どころということに関して異論はあるまい。
ここで本来の遊びの概念に戻りたい。
元々「遊ぶ」という行為は人間が生きるために体にプログラムされたものである。
単なる時間つぶしとはまったく異なるわけであるが、
いつからか、「学び」と「遊び」は人間文化の中で分離してしまったように思う。
楽しみながら学んだことは忘れないというが、
元々は楽しんで「生きること」を学ぶ行為であるから
生命とはやはりうまく出来ているものであるとつくづく感心する。
これを元に今一度自分の行動を見直すのも非常に面白いであろう。
既に自分の中で「楽しさ」とはかけ離れてしまった「作業・タスク」の数々。
最初は楽しめたのに、いつの間にか飽きてしまったそれら。
今一度、小さな子供たちがどのように遊んでいるかを観察するべきだ。
読者諸君、あなたが仮に道端で大きなカタツムリ(電電虫?)を見つけたらどうするだろう?
大半の人々がスルーし、3分後にはカタツムリを見たことさえ忘れているだろう。
小さな子供であればどのように反応するだろう?
大声で親を呼びつけ、接触しそうなほど顔を近づけ、
カタツムリの突き出た目をイジり、そっと殻を持ち上げ撫で回すことだろう。
本当に幼い子であれば口にいれて、その触感を確かめるだろう。
彼らは全身で、全力で、全感覚器官でカタツムリに興味を示す。
それこそが「遊び」であり「学び」である。
自分の中で「遊び」を支配することの重要さがわかってもらえたろうか?
これは遊ぶという行為に非常に重要な要素が含まれていることを示している。
元々生物が遊ぶのは、その遊びの中から様々な「人間社会」を学ぶことにある。
擬似的な家庭環境の構築(ままごと)であったり、スポーツによるチームワークであったり。
家族以外のヒトとふれあい、学び、笑い、その中から幼少の人間たちは多くを吸収する。
多くの「遊ぶ」生物は成体になるとほとんど遊ぶことをやめるという。
おそらくそれ以上学ぶことが必要ではなく、むしろ実践がメインになるからであろう。
それとは対照的に人間は大人になっても質こそ異なれど良く遊ぶ生き物である。
人間は20歳までに学んだことだけで生きていけるような単純な社会には存在していない。
むしろ社会に出てからが学びの勝負どころということに関して異論はあるまい。
ここで本来の遊びの概念に戻りたい。
元々「遊ぶ」という行為は人間が生きるために体にプログラムされたものである。
単なる時間つぶしとはまったく異なるわけであるが、
いつからか、「学び」と「遊び」は人間文化の中で分離してしまったように思う。
楽しみながら学んだことは忘れないというが、
元々は楽しんで「生きること」を学ぶ行為であるから
生命とはやはりうまく出来ているものであるとつくづく感心する。
これを元に今一度自分の行動を見直すのも非常に面白いであろう。
既に自分の中で「楽しさ」とはかけ離れてしまった「作業・タスク」の数々。
最初は楽しめたのに、いつの間にか飽きてしまったそれら。
今一度、小さな子供たちがどのように遊んでいるかを観察するべきだ。
読者諸君、あなたが仮に道端で大きなカタツムリ(電電虫?)を見つけたらどうするだろう?
大半の人々がスルーし、3分後にはカタツムリを見たことさえ忘れているだろう。
小さな子供であればどのように反応するだろう?
大声で親を呼びつけ、接触しそうなほど顔を近づけ、
カタツムリの突き出た目をイジり、そっと殻を持ち上げ撫で回すことだろう。
本当に幼い子であれば口にいれて、その触感を確かめるだろう。
彼らは全身で、全力で、全感覚器官でカタツムリに興味を示す。
それこそが「遊び」であり「学び」である。
自分の中で「遊び」を支配することの重要さがわかってもらえたろうか?
先ほどの世界遺産に関する番組で、
大学の教授の言葉である。
「長所は短所になる」
古代遺跡モヘンジョダロ。
周りを森林に囲まれ、まったく河の無い地域。
ここの住民は雨季の雨水を大きな貯水槽に貯めて乾季をしのいだそうだ。
何しろ土壌は水はけが非常に良く、水が確保できるかどうかが死活問題だからだ。
ゆえに彼らは漆喰を用いて地面を固め、水を漏らさぬ貯水槽を作ったわけだ。
これがモヘンジョダロの最大の長所である。
がしかし、結局この長所が短所になってしまう。
貯水にこだわるあまり、漆喰を作るために周囲の森林を焼き払ってしまう。
結局農作物が取れなくなり、モヘンジョダロは壊滅してしまった。
長所は、それにおぼれると短所になる。
逆に言うと、短所も使い方次第で長所になるということだ。
自らの短所を見直してみたい。
大学の教授の言葉である。
「長所は短所になる」
古代遺跡モヘンジョダロ。
周りを森林に囲まれ、まったく河の無い地域。
ここの住民は雨季の雨水を大きな貯水槽に貯めて乾季をしのいだそうだ。
何しろ土壌は水はけが非常に良く、水が確保できるかどうかが死活問題だからだ。
ゆえに彼らは漆喰を用いて地面を固め、水を漏らさぬ貯水槽を作ったわけだ。
これがモヘンジョダロの最大の長所である。
がしかし、結局この長所が短所になってしまう。
貯水にこだわるあまり、漆喰を作るために周囲の森林を焼き払ってしまう。
結局農作物が取れなくなり、モヘンジョダロは壊滅してしまった。
長所は、それにおぼれると短所になる。
逆に言うと、短所も使い方次第で長所になるということだ。
自らの短所を見直してみたい。
ネットを彷徨っていて感じたことが一つ。
「あなたは□□□したことあるんですか?経験ないヒトにはわからないでしょうけれど」
といった思考を持った人が案外多い。
自分はその経験があるという強み。
相手はその経験が無いという弱み。
自分は経験しているからそのことに関しては自分の言うことが正しい。
経験に囚われるとはこのことだろう。
経験はあくまでただの「事例」に過ぎない。
もちろんそこから得られるものは多い。
多いがゆえにただの事例であることを忘れ、
それが全てであり「不可抗力」であると誤認する。
不可抗力!!
これほど人間を蝕むものは無い。
経験は、特に悪いものであれば本人にとっては絶対的不可抗力になりえる。
それが個人的に特に大変な思いをしていればいるほど。
この「あなたにはわからない」といった経験則の不可抗力化の背後にあるのは
「自分の苦難を否定されること、自認することへの抵抗」が存在すると私は考える。
相手の否定的発言を受け入れ、また自分の苦難が無意味であると自認することは
なかなか出来るものではない。だから不可抗力にしてしまえば気が楽になる。
だがこの「不可抗力」と化した経験の刃を振り回すと、結局自分の体ばかりが切り刻まれる。
「おまえは恋愛経験なんてないだろ」
「あんたは人を束ねた経験なんてないでしょ」
「君は挫折というものを感じたことないんだろ」
苦難を不可抗力にするか糧にするかが人の分岐点だ。
少なくとも糧にする人は刃など振り回さず、むしゃむしゃ食べてしまうものである。
「あなたは□□□したことあるんですか?経験ないヒトにはわからないでしょうけれど」
といった思考を持った人が案外多い。
自分はその経験があるという強み。
相手はその経験が無いという弱み。
自分は経験しているからそのことに関しては自分の言うことが正しい。
経験に囚われるとはこのことだろう。
経験はあくまでただの「事例」に過ぎない。
もちろんそこから得られるものは多い。
多いがゆえにただの事例であることを忘れ、
それが全てであり「不可抗力」であると誤認する。
不可抗力!!
これほど人間を蝕むものは無い。
経験は、特に悪いものであれば本人にとっては絶対的不可抗力になりえる。
それが個人的に特に大変な思いをしていればいるほど。
この「あなたにはわからない」といった経験則の不可抗力化の背後にあるのは
「自分の苦難を否定されること、自認することへの抵抗」が存在すると私は考える。
相手の否定的発言を受け入れ、また自分の苦難が無意味であると自認することは
なかなか出来るものではない。だから不可抗力にしてしまえば気が楽になる。
だがこの「不可抗力」と化した経験の刃を振り回すと、結局自分の体ばかりが切り刻まれる。
「おまえは恋愛経験なんてないだろ」
「あんたは人を束ねた経験なんてないでしょ」
「君は挫折というものを感じたことないんだろ」
苦難を不可抗力にするか糧にするかが人の分岐点だ。
少なくとも糧にする人は刃など振り回さず、むしゃむしゃ食べてしまうものである。
かなり前、
アニマル浜口が
「よぉーし、4年後!北京だ!鍛えるぞぉ~!」
と京子選手を鼓舞しているのを見た事がある。
常に「高い」ところで自分を「維持」しているのがそこからうかがえる。
多くの人が「直前にならないと仕事に手が出せない」という悩みがある。
なかなか手が出せない、というのは面白い現象であり、解決はいたって単純である。
手を出そうか出すまいかを誘惑・気分に「一任している」のが問題だ。
手始めの突破として「いつどれくらいのスピードでやるか」をあらかじめスケジューリングしてしまう。
スケジューリングも仕事の一つであるため、これは文字通り「可能な限り」はやく立てる。
ここでの「可能な限り」は「厳守」とほぼ同義だと思ってくれてかまわない。
仕事が発生した瞬間頭の中でスケジュールを組み立て、手帳やメモに記録してしまう。
スケジューリングを仕事のための仕事にしてしまうと結局直前まで手が出ない。
そしてそれが2週間続けることが出来れば習慣化できるだろう。
仕事が発生したときに手元に手帳がないと強烈な不快感と不安感に襲われるはずだ。
アニマル浜口が
「よぉーし、4年後!北京だ!鍛えるぞぉ~!」
と京子選手を鼓舞しているのを見た事がある。
常に「高い」ところで自分を「維持」しているのがそこからうかがえる。
多くの人が「直前にならないと仕事に手が出せない」という悩みがある。
なかなか手が出せない、というのは面白い現象であり、解決はいたって単純である。
手を出そうか出すまいかを誘惑・気分に「一任している」のが問題だ。
手始めの突破として「いつどれくらいのスピードでやるか」をあらかじめスケジューリングしてしまう。
スケジューリングも仕事の一つであるため、これは文字通り「可能な限り」はやく立てる。
ここでの「可能な限り」は「厳守」とほぼ同義だと思ってくれてかまわない。
仕事が発生した瞬間頭の中でスケジュールを組み立て、手帳やメモに記録してしまう。
スケジューリングを仕事のための仕事にしてしまうと結局直前まで手が出ない。
そしてそれが2週間続けることが出来れば習慣化できるだろう。
仕事が発生したときに手元に手帳がないと強烈な不快感と不安感に襲われるはずだ。
その昔、世界は圧倒的に教師より師範の数が多かった。
その数は20世紀に入って逆転したように思う。
師範と教師は圧倒的に違う。
教師とは「教える行為」で飯を食う。
師範とは「教える内容」で飯を食う。
料理人を例に挙げると、それは師範である。
料理そのもので稼ぐわけで、弟子はその技を盗んでいく。
学校の教師は、子供たちの教えるという行為で給料を貰う。
師範に教えを請う場合は弟子は頭を床にこすりつけでも傍において欲しいと懇願する。
是非その技を、秘伝を自分に伝授して欲しいと。
そういった意味で教師は20世紀に入り立場が低くなってしまったようだ。
昔の教師は師範的なイメージが強く、子の親も教師には深々と頭を下げた。
教師の質うんぬんかんぬん以前に、教師のスタイルが変わりつつある。
その数は20世紀に入って逆転したように思う。
師範と教師は圧倒的に違う。
教師とは「教える行為」で飯を食う。
師範とは「教える内容」で飯を食う。
料理人を例に挙げると、それは師範である。
料理そのもので稼ぐわけで、弟子はその技を盗んでいく。
学校の教師は、子供たちの教えるという行為で給料を貰う。
師範に教えを請う場合は弟子は頭を床にこすりつけでも傍において欲しいと懇願する。
是非その技を、秘伝を自分に伝授して欲しいと。
そういった意味で教師は20世紀に入り立場が低くなってしまったようだ。
昔の教師は師範的なイメージが強く、子の親も教師には深々と頭を下げた。
教師の質うんぬんかんぬん以前に、教師のスタイルが変わりつつある。
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