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頑張れよ、とか がんばってね、なんて声をかけたりかけられたり。

でも 努力しろよ、 努力してね、なんてのはそうそうない。
上司や先生から言われることはもちろんある(笑)

さらに「がんばれ」と言ったり言われたりするのが嫌いな人もいるようだ。

「頑張る」も「努力する」も似たような言葉と思ってしまいがちだが
その差はいったい何なのであろうか?

頑張るとは頑ななまでに我を張り通す(電電解釈)。
努力とは、対象の仕事や行為をするにあたり力を惜しまないこと(電電解釈)。

つまり「頑張る」とは「自らの在り方(be)」を意味し、
「努力する」とは「自らの行動選択(do)」を意味しているのではと考える。

BeがDoを引き起こし、DoがBeを振り返る。
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懐疑主義者というとなんとなくとっつきづらそうな名前ではある。
本来は根拠を持たない独断を排除しようといった思想であるが、
今回のテーマとしては「もっともらしいが根拠を持たない前提を疑う」としての意味を持たせる。

前提主義とは「もっともらしいが根拠を持たない前提を多用する」思想のことである。

「国は国民の俺を守ってあたりまえ」
「店は客の俺に最高のサービスを頭を下げて提供するのがあたりまえ」
「学校は将来の人的財産たる子供たちを優遇してあたりまえ」
「人間も生物なのだから弱肉強食世界によって淘汰されるのはあたりまえ」
「教師は税金で飯食ってるんだから保護者の言うことを聞いてあたりまえ」

「あたりまえ」とは前提であるがゆえに、そこに思考は存在しない。
問題なのは、あらゆる「あたりまえ」を「一般常識」として無思考によって乱用することである。

非生産的前提主義から見れば生産的懐疑主義は「常識を知らない屁理屈屋」であり、
生産的懐疑主義から見れば非生産的前提主義は「偏見のコレクター」である。

例えるならば
非生産的前提主義は老齢の大木であり、
生産的懐疑主義は若年の樹海である。

前者は基本となる思想の幹が倒れるとすべて倒れてしまう。
ゆえにその幹は古くかたく、大地にしっかりとしがみついている。

後者は一本が倒れようとも樹海そのものにはほとんど影響がない。
樹海そのものが一つの「総体」であるからだ。
一つの思想の木をよりどころとせず、その実体を持たぬ思考ネットワークこそが本体なのである。
仕事でも勉強でも、
始めるためには「やる気」が必要であると考え、
そのスタートダッシュのためにだらだらと時間つぶしをしてしまう。

はたしてその時間つぶしでやる気が出た試しがあるのか。
個人的にはなかったように思う。

いつの間にやら数時間。
もったいなかったと後悔しつつも繰り返す。

ここではやる気を出すための手法に関しては言及しない。
むしろその無駄時間をいかに有効に使うかを考えよう。

時間があったらやっておきたいことは多い。
それをなぜやらないのか。
なぜなら「やらねばならないタスクより優先度が低いと思っている」からである。

ちょっとロボットの回路を作っておきたいなぁ。
でも論文も書かなきゃならないしなぁ。
ロボットの回路はいつでもできるから、論文を書くことに専念しなきゃ。
でもちょっとやる気が足りないなぁ。
ちょっとネットサーフィンで気晴らしでもするか。

よくあるパターン。

優先度が低かろうがやりたければやってしまったほうが「勝ち」である。
ネットサーフィンなどは決して優先度が高いわけでも是非やりたいことでもないはずなのだ。

無駄に過ごすくらいなら優先度が低くてもやりたいことを。
そもそも「自分にとってのチャンス」を定義してる人はそういない。
そういった意味でチャンスとはかなり直感的なものなのだろう。

チャンスをモノに出来る人というのは
1.自分にとってのチャンスがどんな物であるかを決めている
2.普段から小さいチャンスをモノにする癖を身につけている

この2つがポイントになる。

周りには就職活動をしている友人達が多いが、
今の彼らは「自分のチャンスがどんなものか」を考えているに違いない。
それが面接の場であれ、就活生同士の情報交換の場であれ。
要するに「ほしいもの、したい行動、望ましい状況」が見えているからチャンスも見えるのだ。

逆に言うとそこまで追い込まれなければ、チャンスというものに縁が無いことになる。
こいつは問題だ。
直感的なチャンスだけではほしい人生も手には入るまい。

ここでの「直感的チャンス」とは
チャンスの質、タイミングを直感的に見抜く、といったかっこいいものではないことを断っておく(笑)

道に1000円札が落ちていた。
ぜひ見たかったマニアックなDVDを偶然ツタヤで見つけた。
先生の出張でレポートの提出期限がちょっと延びた。
阪神優勝で関連商品が若干安くなった。

せいぜいこのレベルだと捉えてほしい。
この類のチャンスをモノにするのは別に難しくもない。

チャンスに貪欲な人は「勝手に神の思し召し」を作ることが出来る。

友人と口論した → 素直になるチャンス
上司に怒られた → 自分と戦って勝つチャンス
エレベータが中々来ない → 階段を使うチャンス
知人が待ち合わせにちょっと遅れそうだ → 細かい仕事を先に片付けるチャンス
風邪をひいた → 食っちゃ寝が出来るチャンス

チャンスをモノに出来ない人はこれらを馬鹿らしく感じるようだ。
行うか行わないか、モノにするかモノにしないか。

間違ってはいけない。
モノに出来なかったチャンス、というものは存在しない。
自分でモノにしないことを選択した、という言い方が正しいのだ。
気に入らない人がゼロという人はなかなかいない。
啓発的にゼロもしくはそれに近い人ももちろん存在する。

今回は前者に焦点を当てる。
世界も宇宙も基本として人間の脳の中にある。
結局は知覚しているものが人間の感じる「世界」だからだ。

ゆえに広義での善人悪人もかなり主観が入ることは言うまでもない。
ただ、必要以上に悪人の範囲を増やす必要も無いというのが今回のテーマとなる。

頭の中で嫌いな人に対する考えがループして鬱々となるといった経験は誰しもあるだろう。
それが非生産的であるということはかなり前のブログでも書いたし、
現在ではかなり一般的な考え方でもあろう。
しかしながら、「生産的ではないから非生産的である」というのも若干的外れな気がする。
「生産的」を「プラス」とするのであれば「非生産的」は「ゼロ」であろうか?
鬱々としたループに関して言えば、この場合での「非生産的」は「マイナス」を意味している。

人間の脳は対象を無意識のうちに分類する。
非常にアバウトな「好き・嫌い」というものから、高抽象概念的な「倫理的、非倫理的」といったものまで。
この考え方は以前ブログで記載した「人間がタグをつけて整理する」ことにつながっている。
その際に「自分が接触することで何らかの不快感を得る人」をどう捉えるかがポイントである。

不快感からの分類、タグ付けは非常に簡単で
「苦手」「不安」「嫌い」「悪人」などなど、わんさか勝手に集まってしまう。
これは「熟考」の名を借りて他人を必要以上に悪人たらしめてしまう危険性を秘めている。

たとえば部下の話をなかなか聞いてくれない上司。
聞かない割には説教ばかりで一方的なコミュニケーションをはかろうとする。

説教された後は窓際でコーヒーでも飲みながらグダグダと負のループが回り始める。
面と向かってはいえない反論。
バシッと文句を言ってやったことを考えたときの爽快感。
そんな妄想も含めてぐるぐると回る。
既にその上司は「苦手な上司」から「駄目上司」、そして「敵」へと変貌を遂げる。

いつの間にか、説教の内容は脚色され、現実離れした人物像が出来上がる。

そうしてしまえば楽で快感だからだ。
自分は悪くない。自分が正しい。

だけど本当は「自分を守りたい」というのが大きいのでは?
目標は上司の正確な人物像を自分の中に作り上げることではない。
まず自分が説教された要因を見つけ出して、自分で潰せるところを徹底的に潰す。

そういった意味で負のループは非生産的なんだと考える。
スランプを経験しない人はそういない。
失敗を経験しない人もそういない。

それを次に活かすというのはよく言われていること。

ただ、次のステップが「復活」なのか「挽回」なのかを明確にして行動する人もそういない気がする。
少なくとも今までの私がそうである。

復活と挽回の間には大きな差がある。

たとえば競馬で10万円負けたとしよう。
次の競馬で10万円もしくはそれ以上勝つのが復活である。
競馬に見切りをつけたり、自分の中での競馬に対する価値をシフトするのが挽回である。

復活と挽回、どちらが望ましいかは一概に決定することは出来ない。
どちらが必要であるかを考えて行動すること自体が重要であるからだ。
ただ、そこに思考を入れず復活を目指すことのほうが多いのではないか。
逆に言うと、復活しなくても別にいいのに復活を目指して似たような失敗を再度する。
復活しなければいけないのに挽回の名を借りて現実逃避する。

今の職場になじめない、上司と仲が悪い。
だから会社を変えて挽回をしよう。
そうやって短いスパンで職を転々とし、最後には就職さえ出来なくなる。

復活にとらわれない、挽回の名を借りない。
選択の余地は常にある。でも選択肢には騙されない。

いま抱えている問題はどちらを選べばいいだろう?
夢に向かって歩いているのに
なぜか今の仕事にモチベーションが持てない、なんてことがある。

ハードルが高いわりには地味な作業だったり、
雑用にしか思えなくなってしまったり、
いろいろ。

そんなときは頭の中をデフラグしてみるといい。
デフラグに関しては以前のブログでも書いたが、
若干その手法を改善してみたいと思う。

現在自分が持っているタスクを整理して優先順位を決める、というのは
かなりオーソドックスな方法であるが、今回は精神負荷パーセンテージを使用する。

現在頭の中で何がどれくらいのウェイトを占めているかを考えるのだ。
例えば先週の私を例にとって見よう。

論文執筆 55%
映画 10%
英語勉強 0%
留学生対応 15%
読書 10%
ロボット 0%
家族 5%
友人達 5%

圧倒的に論文執筆の占める割合が多いことが明らかになった。
ここで重要なのは、
頭の中を占める割合が大きければ重要事項であるというのは間違いだ、
ということ。
確かに私にとって論文を書くことは大事であるが
英語に対する意識が足りなくなっていたり、
本業であるロボットにまったく手がついていないのは問題である。
この配分は間違いであることがわかるのだ。

では理想の配分はどうだったらいいのか?

論文執筆 20%
映画 10%
英語勉強 15%
留学生対応 5%
読書 20%
ロボット 15%
家族 10%
友人達 5%

論文執筆の頭を占める割合をかなり減らし、
本来考えるべき英語とロボットに関する割合を増やした。

頭の中には思考のバリエーションを持たせて稼動させておかないと
だんだん効率が悪くなってくるようだ。
一つのことに専念している間、例えば論文執筆中は論文が100%であるが、
人間にはアイドリングが存在する。
ご飯を食べているとき、道を歩いているとき、友人と話をしているとき、
ゆったりと読書をしているとき、ネットでいろいろ文献を探しているとき。
そんな集中度が低くても大丈夫なアイドリング状態のときに
頭の中の精神負荷パーセンテージが理想状態でないと、
頭が落ち着かなくなり、パフォーマンスが圧倒的に落ちてしまう。

論文に追い掛け回されて押しつぶされそうな感じ。
英語もロボットも勉強してないというあせり。
論文が頭の中から離れないという嫌悪感。

普段この精神負荷パーセンテージをデフラグせずにカオス状態にしておくと
実際どれくらい自分の頭の中を占めているのかわからなくなってしまう。

今自分は何をどれくらい考えているのか。
それはどれくらい頭の中に入れておけば十分なのか。

重要だからといって頭の半分も占めてはいけない。
割合をぐっと小さくすると、かえって楽になってパフォーマンスもあがる。
二人の男がいた。

金に困っている。

一人は地面に落ちている石の中から
形が面白いものを選んで、それをただただ売って細々と食い繋いだ。

もう一人の男はせっせと土を掘っている。
別に何を売るでもない。
腹をすかせながらもただただ土を掘っていた。

石を拾う男は土を掘る男をあざ笑った。
土なんて何の価値も無いじゃないか、と。
そんなものを掘ってどうするのだ。

そしてとうとう土を掘る男は地面の中から油田を見つけ出したのだった。



ゴールにたどり着くには
はたから見ると何の価値も無い行為を延々とする必要があることもある。
電気も飛行機も「大衆が無価値と判断した」にも関わらず大成した典型例である。

大衆の盲点は宝の宝庫だ。
かなり前のブログでも書いた。
大事なことなので再考してみる。

とあるヴァイオリニストの言葉。

「ヴァイオリンの音っていうのはガシガシ弾いてひけらかすものではない。
ヴァイオリンの内へ内へと弾き込んで、それでもあふれ出す音を聞かせるのだ。」

前回はこれをプライドに当てはめた。
今回またこれに触れるのは「能」にも適応できると感じたからだ。

人間は何かしらの「能」を得ると、それを使いたくなる。
使うこと自体はもちろん結構である。
問題は振り回すことにある。

木刀を初めて持った子供のように。

強い剣士は刀を鞘から抜かず、かまえるだけで相手を圧倒できる。
チンピラは最初から抜き身を振り回す。

「能」は「知っている」と「行える」の間に大きなギャップがある。
知っていることを行い、行って改めて「知りなおす」ことの重要さ。

そういった意味で「能」とは使って使って、自分の内へとひきこみ、
それでもにじみ出てくるものが「才能」と呼ばれるものになるのだろう。

日本人の美徳もしくは欠点の一つに「多数派主義」がある。
多数派に流れ、事なきを得る。
何かしらの行動、選択、思想においてオリジナルを貫く気概を持たない。
周りの空気をうまくよんで、仲間とうまく協調する。

果たしてこれらは「多数派主義」の二面性を表現しているのであろうか?

個人的意見としては「否」である。
「周りの空気をうまくよんで、仲間とうまく協調する」という建前で
自分のオリジナルを熟考かつ推敲しないだけではないか。
自分の行動、選択、思想の正当性を「多数派」であるということだけで免罪符を貰った気になる。

タバコも覚せい剤も、電車での携帯も路上駐車も。
自分以外にも多くの人間が手を染めることでその罪悪感を薄める。

こういうときの人間はなぜか視点が高い。
社会や地球に対しての自分の小ささを自覚し、
「自分ひとりが吐いた煙、自分ひとりが捨てたゴミ」と
またそこに多数派であることの免罪符を得ようとする。

ちりも積もれば山となるが、それを個人で自覚するのは難しい。
むしろ重要なポイントはそこではない。
自分がどちらの人間なのか、どの選択をしたのか。
自分がタバコを吸う人間か、吸わない人間か。
自分はポイ捨てを一つもしない人間か、する人間か。

その差は自分の人生にとって、自分のステータスにおいて非常に大きな差を生んでいるはずだ。
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photo by 七ツ森  /  material by 素材のかけら
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北海道生まれ。
北海道にロボットフィールドを作ろうと日々奮闘中。
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