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 朝一でアクティブな人々のツイートを読むと、
一日のテンションとモチベーションが上がります。

数か月前からホリエモンをフォローしていまして、
非常に興味深かったツイートをご紹介しましょう。

「実装力のある人の方が今は価値がある。
だからアイディアなんてどんどん社会の為に格安、
あるいはタダでばらまきゃいいんだよ。。。」

「アイディアって今は皆で共有して、実装する時代なんだよ。。
だから私もtwitterやブログ、月840円のメルマガでアイディアをどんどん出してる。」

「ネットのおかげでマッシュアップ的なアイディア量産手法が出来たんだから、
もうアイディアで大金稼ごう思わない事だよ。」

うーむ、さすがな発言。
文中のマッシュアップという単語は初耳だったのですが、
これはIT用語だと
「異なる提供元の技術、コンテンツを複合して、新たなサービスを作ること」なんだそうだ。
音楽用語であれば
「2つ以上の曲から片方はボーカルトラック、もう片方は伴奏トラックを取り出して
それらをもともとあった曲のようにミックスし重ねて一つにした音楽の手法」なんだとか。

誰かひとり、何か一つのものが時代を大きく変えるのではなく、
インフラなりアイディアなり実装方法なりが複雑に絡み合って世界に浸透するというわけですね。

知的財産権とかどうなるのかな?
「理論上は可能です、なんてのは古いんだよ!」ってなるのかな?
実装して世に出してなんぼ、ってのは日頃思います。
ロボットも実装して何ぼでしょう。

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 タージ・マハールっていうカレー屋さん知ってます?
今日は家族とそこで晩御飯でした。

札幌狸小路に新しく店舗ができたので、行ってみたわけです。
入口の階段を上がると、すごいスパイスのにおい。

チーズナンとラムカレーを堪能してまいりました。

いつぞや香辛料のドキュメンタリーで
インドの偉い人(香辛料王?)が言ってました。

「日本人はインド人と比べて損をしている。
日本人は食事をするときハシとやらを使うが、
我々は自らの指を使って食べるわけだ。
料理とは味だけではなく、食感や暖かさも楽しむだろう?
インド人は指先でも味わっているってわけだよ。
つまりね、
インド人は食べ物を指でつまんだ時には、
もうすでに頬張っているのさ。」

なぁーるほど。
 

議論のネタにしたら白熱しそうなタイトルである。

毎度のことながら、
複数のパラダイムで解釈しつつ
「平べったい答え」を出さぬように気を付けつつ話を進める。

最近書籍にて「自由至上主義」と「功利主義」に関する内容を読み、
非常に興味深く感じたところである。

「役立たず」

下手をすれば差別用語にもなりうるデリケートな単語だ。
大辞林で調べると「役に立たないさま、そのようなもの、人物を指す」。
ほとんど解説になっていない気がするのは私だけか(笑)
かといってこれ以上の文章を加えるのは至難の業である。
何故なら「役に立つ」ことを定義せねばならず、
これは「言葉の意味」を超えた部分だからだ。

さて、「役に立つ」ことを否定するのが「役立たず」なのであれば
「役に立つ」とはどのようなことを指すのかを考えればよい、としよう。

平たく言えば、人の要求、必要だと思っていることを
何らかの方法で満たせる人、モノを指している。
それが一般に言う悪だろうが善だろうが、どちらでもよい。
ニーズを満たせば「役に立った」といえる。

と、ここで解釈が中断される。
なぜならば「役に立つ」をニュートラルな視点から定義してしまったからだ。
これだと大辞林とさして差がない。

どこで間違ったかというと
「役に立つ」と「役立たず」は対義語ではない
ということである。

言葉そのもののみを考えれば対義語たり得るが、
対義語として成り立たせるためには「境界線」が必要になる。
ここでの境界線は「ニーズにこたえる」ことなのであろうか?

ちょっと例を出して考えてみよう。
会社で仕事をして、今日は対して成果を出せなかった。
上司がポンっと肩をたたく。
「今日の君は役立たずだったね。でもこれにめげず明日も頑張ろう!」

うーん・・・
ニーズに応えられなかったのは確かだが、
「役立たず」という言葉を浴びせられたほうがいい気がしない。

これはつまり、対義語としての境界線が「ニーズに応える」というだけでは
不十分である可能性を示唆していると言えるのでは?

言葉の持つイメージというのは重要であるが、
ここではそのイメージをもう少し深堀してみたい。

少々過剰な表現かもしれないが、
その境界線は「ニーズに応える」だけでは不十分で、
「称賛に値するかどうか」といったイメージが付加されるように思える。

「役立たず」と言われると「ニーズに応えられない」だけではなく
「とてもじゃないが褒められたものではない」という負の感情が背後にある。
これには「役に立たなければ不要である」という考えが見え隠れするわけだ。

対象がモノであれば、それほど酷い負の感情が発生することはないだろう。
捨てるなり中古ショップに売り払うなり、様々な手段がとられる。

しかしながら、対象が人間ともなれば話は一気に複雑になる。
ここでは話を多少シンプルにするため、
「どんなことが役に立っていると言えるのか」は議論しない。
少なくとも誰かが「役に立つ」という価値観を持っていることは前提として疑いようがないからだ。

とするならば、
こうまで複雑化した原因は何か?
それは「役に立つことが正義である」という価値観が、
ほかの価値観と衝突することにある。

自らの使命感として「役に立ちたい」と思い、行動することは問題ない。
それが普遍的な正義としての価値があると信じ、
他人にまで影響を及ぼしたときが問題となるわけだ。

「正義の押し付けになるから問題なのだ」という答えは、
私としては非常に「平べったい解答」であると考える。
確かにこの答えは正解であろうし、重要な観点でもある。
ここでは役に立てなくても、あそこでは役に立てるかもしれない、と。
どれくらい貢献するかは個人の実力や境遇に見合ったものを選べばいい、と。

たしかにたしかに。

が、これだけでは思考として十分ではないだろう。
「役に立つことが正義」ということを前面に主張するということは、
今、もしくは「将来」の自分が役に立っているという一種の確信を持つこととなる。
ここら辺の一種の正義感や使命感およびそれらの確信は「好み」に近い印象を受ける。

言葉の意味がイコールに近い、というのではない。
人間の心理状況として非常に近しいものがあるという意味である。

「この小説、めっちゃ面白いから読んでみて!」
と、他人に自分の好みを押し付ける人。
「ね、こないだ貸した小説、どこまで読んだ?おもしろい?印象に残った登場人物は?」
確認しないと気が済まない。

再度断るが、あくまで心理状況として似ているという話だ。

「社会人として、これくらい貢献して当然だよね!」
と、個人で自己評価を上げていくのであれば好ましいと言えよう。
しかしながら、これは結局「自分を基準」として「自分以下を否定」する思想に発展するのがマズいわけだ。

結局「役立たずは不要」と述べるようであれば、
基準さえ変えてしまえば当の本人すら「不要」となる。

「そうは言っても、程度ってものがあるでしょ?微力なんて無いに等しいよ。」
基準さえ変えれば、かく言う本人すら「微力」である。

以上のべたように、
「役立たずは不要」という概念は
人間の感情というものを考慮する以前に
単一視点的な独善思考に陥りやすい性質を持っているという点を持つと考えられるわけだ。

「こいつ、役に立たねぇな」と思っているとき、
だれかが当人のことを同様に思っている。
 周囲の人間と良好な関係を築き、
円滑に生活をする、というのは
いかにも「健康」な思想のテンプレートに思える。
実際そう思う人も多い。

こういったネット記事を見るたびに
そのレビューの一部として、
「コミュニケーションが苦痛な人だっているんだ」
といったコメントが見受けられるのも少なくない。

こういった発言はいかにもネガティブな印象を受け、
理想を言うならば良好な関係を築いてほしいと周囲が願ったりする。

さて、今回のお題は
「孤独を望むのは不健康なのか?」ということだ。

と聞くと
「別に個人の自由だから、一概に不健康と言い切るのはよくない。
実際自分だって孤独になりたいことはあるし。理解はできる。」
と、一定の理解を示しつつ
どことなく「できればコミュニケーションを・・・」といった意図が見え隠れする。

コミュニケーションの重要性に異を唱えるつもりはないが、
はたして「べき論」で語ってよいものかどうか、検証してみたい。

では、どのような状態を「コミュニケーションを大事にしている」と言えるのか。
渋谷のスクランブル交差点に立てばいいのか?
これだと周囲に人は大勢いても、意思疎通そのものが行われていない。

会社においてチームで仕事をしている状態はどうだろうか?
プロジェクトは問題をいくつか抱えつつも、なんとかやっていけている。
メンバーどうして意思疎通をしながら励ましあい、仕事を実行する。
このような状態であればコミュニケーションを大事にしていると言えそうだ。

が、ここで考慮すべきは
「リーダーは孤独である」と感じているリーダーの数が少なくないことである。
メンバーとは日々コミュニケーションし、時には雑談もする。
それでもリーダーたちは孤独を感じているのである。
そういう職であるということを許容、もしくはそうであると認めている人々は、
言い換えればそのポジションによって「孤独を受け入れている」こととなる。

とするならば、そのリーダーたちは「負け組」なのであろうか?
そこまで極端な意見でなくとも、理想状態ではないのであろうか?

リーダーの件に関してはあくまで一例であるが、
ここから考えられるのは
はたして「コミュニケーションが重要である」ということと「孤独を認める」ということは
相反する思想なのであろうか?ということである。

「孤独を許容することと、好むことは別だ!」という意見もあろう。
その通りである。
「しかたがないことなのか、そもそも孤独が好きなのか」は別に見える。
しかしながら、共通する点として「自らそれを選択」しているのである。

ここまで来ると「コミュニケーションすること」と「孤独である」ことが
対義語ではないことは分かってきたが、
であるならば「コミュニケーションとはなんだ」となる。

おそらくこの問題の根本を翻訳するとすれば
「他人との関わりを積極的に持つか否か」と考えられる。
他人との関わりを持ちたくないと考え、それを実践すれば
結果的に孤独になるのは想像するにたやすい。
これは「関わらないという選択」の「結果」として孤独になったと捉えられる。

先の話と合わせれば、
「人とかかわらない」≠「孤独」ということになろう。
このように抽出すると違和感を感じる人も多いかもしれない。
ほとんどイコールじゃないの?と。

ここで必要になるのは「人とかかわる」ということに関して、
もうすこし掘り下げることだろう。
単純に「かかわる」だけで、その様式を問わなければ
人に道を聞いただけで「孤独ではない」ということになる。
が、人が「自分は孤独だ」と思うのは、もっと本能的な所ではあるまいか。

リーダーの話をするならば、
「メンバーの意図をくんであげられてない」
「リーダーの気持ちがわかってくれる人がいない」
「会話はするものの、上下関係が邪魔をしている」
等といった「気持ちの交換」が、その質を左右しているように思える。

要は「気持ちのやり取り」と「情報の伝達」が別物であるという結論に至るわけだ。

ということで冒頭の命題に戻ろう。
「人とかかわりたくない」と言って「孤独を選択」したい人々の望みとはいったい何なのだろうか?

気持ちのやり取りをしたくない。
自分の気持ちを知られたくない。
他人に興味がない。
情報の伝達だけであれば、無機質な印象が強く敬遠したい。

まだまだありそうだが、こういった例は考えられる。
そういった意味で、
「コミュニケーションが大事」と述べる人こそ、
孤独という概念、気持ちのやり取りに関して深堀する必要がある。

孤独を選ぶ人はコミュニケーションを否定しているわけではないし、
孤独を好む人は負け組なのでもない。
むしろ負け組であると認識する人は、
その時点で内面に持つ「コミュニケーションの概念の質」が疑われることになりかねないのだ。

 数学的な証明をしても
直観的な汎用性は得られないため、
ここでは日本語に翻訳することにしてみた。

「(-1)×(-1)=+1」を日本語訳すると、
「難しいことを小難しく教えることは簡単」となる。

「(+1)×(-1)=-1」を日本語訳すると、
「簡単なことを難しく深堀りするのは骨が折れる」となる。

「(-1)×(+1)=-1」を日本語訳すると、
「難しいことをわかりやすく簡単に教えることは非常に困難である」となる。

「(+1)×(+1)=+1」を日本語訳すると、
「簡単なことをシンプルに教えるのがスマートである」となる。

このように考えると、
「(-1)×(-1)=+1」と「(+1)×(+1)=+1」で得られた
「+1」の意味が全く変わってくることに気付くわけだ。

同様に「+0」と「-0」も違う。

のび太の「60点」と出木杉君の「60点」も全然違う。

そういった意味で、
無味乾燥に思われがちな数学とは
非常に深く人間感性と結びついた学問と言えよう。


すべての「+1」を一切差別することなく同様に扱うのがデジタルとするならば、
人間がアナログであるということも、「数学的」に理解することが可能なのである。

多くの人間が妄信的に求める「平等」とか「公平」といった概念は
仮に達成できたとするならば、非常に無味乾燥でデジタルな結果を招くのかもしれない。

 私用で3連休を本州で過ごしました。
ブログを更新する予定でしたが、
2年前のガラパゴス携帯では満足にできません。
ログインすらできないとか(笑)
はやいところスマートフォンがほしいところです。
レグザとかエクスペリアプレイとか、個人的に注目。

さて、今回の御題は「拘束こそ自由」という一見矛盾したものです。
過去に書いた記事ともつながってきます。

たとえば、私のようなネットやPC、およびそれに類するものにどっぷり漬かった人間を、
ヨーロッパの田舎へ引越しさせたとしましょう。
果たしてそれはネットからの開放でしょうか。
それとも情報からの隔離でしょうか。


見方を変えれば、どちらとも捉えられる、
というのはこの際ナシにしましょう。

そもそも「誰か」に対して「情報を与える」ということは、
どういうことなのでしょうか?

情報に限らず、誰かに何かを与える行為は
ニュートラルな意味での「拘束」に当たります。
自分の子供に名前をつけると、それ以外の名前は基本名乗れません。
もちろん芸名なり改名なり手段はありますが。
言い換えれば「船のいかり」に非常によく似ていると言えるでしょう。
いかりがなければ、船は波にさらわれてどこかへ流れていってしまう。
いかりを下ろすという行為は「私はそこに立ち止まりたいのだ」という意思表示とも言えるわけです。

もう一つ例を。
某アニメからの引用ではありますが。

あなたが宇宙空間に漂っているとしましょう。
自由にしてください。
といわれても、実際手も足も出ないはず。
思わず叫ぶでしょう。
「誰か俺を地面に拘束してくれ!」と。
そうすればあなたは地面の上を縦横無尽に歩き回れるでしょう。
もしかしたらそれでは物足りないかもしれません。
「誰か俺に居場所をくれ!」と。

ありとあらゆる拘束を受け、
人間は自分を自分たらしめることができると考えられます。

自由すぎるとかえって人間は何もできなくなる。
「拘束」という名の地面を歩くほうが「楽」でしょう。

しかしながら、
そこに「いる」ために、寄りかかる壁を作りすぎてしまうと
自由を渇望したりする。

そういった意味で自由とは非常に究極的な表現と言えるわけです。

「自由にやりたいんだ、俺は」と思っている人は
その自由という単語の意味を今一度噛み砕く必要があるでしょう。
少なくとも「宇宙空間に放り出してくれ」という意味ではないはずですから。
 人間は自らの眼球を見ることはできない。

同様に、自らの「思考そのもの」を思考することも困難である。
どんなに意識しても、人間の思考は散逸的で
なおかつ極端なまでに偏りがちとなる。

双方に必要なのは、それらを写す道具であろう。
鏡を見れば自らの眼球を見ることができる。
ではここでいう思考を写す鏡とはどんなものだろうか?

一般に言う論理的な思考?
論理的に考えることの重要性は述べるまでもないように思えるが、
「一見筋が通っていて、反論できない」のであれば「正論」となってしまう危険性をはらむ。

ここらへんはちょっとやそっとの意識や注意でどうにかなるものではない。

ちょっとした笑い話を引用する。

 機関車を擬人化するとトーマスになる。

といったように、「擬人化」という手法は巷に溢れている。
がしかし、「擬人化」とはそもそも何なのかを明確に説明するのは難しい。

国語辞書においては

【擬人】
人間ではないものを人間に見立てて表現すること。

とあるが、トーマスは機関車としての機能や外見を多く残しており
辞書通りの「擬人化」をしているかといえば疑問が残る。


 
最近少しずつ名前が売れてきた「進撃の巨人」
3巻まで一気読みしましたが、よくできてるというのが感想。

人間を捕食する巨人たちと、人間たちの壮絶なバトル・・・
と思いきや、実際は巨人たちの一方的な殺戮がメインです。

そういった意味で「よくあるヒーローモノ」でないところが良い。
食物連鎖のピラミッドに君臨するのが人間ではなく、
圧倒的な生命力と捕食能力、戦闘能力をもった巨人たち。
その生態に多くの謎を秘め、今日も人間を脅かすわけです。

イラストが荒いところが気になりますが、
弐瓶勉氏も最初はそうだったし、
ドラゴン桜の三田氏もストーリーが良ければイラストは二の次の人。

実際それでもいいと思えるほど面白いストーリーに巡り合うのは滅多にないが、
「進撃の巨人」は先が気になるコミックのトップランキングです。

タイトルの「王冠をかぶった家畜」は本書を読み進めるうちにひらめいたセンテンスです。

巨人を阻むための50mの岩の塀に囲まれて100年の平和を手に入れた人間が
少しずつ巨人たちからの脅威を忘れて堕落していく描写がある。
飲んだくれる門番兵は主人公格の少年から「家畜」呼ばわりされるわけですが、
平和と安心が手に入るのであれば別に家畜でも構わん、と言う兵士たち。

結局彼らは「おいしくなる」まで「小屋でよいしょされた家畜」であり、
最終的に巨人たちに捕食される運命となる。

知性と恐怖心、闘争心は二項対立的に捉えられることが多い。
実際サルを用いた動物実験において、脳に手を加えて「恐怖心」を取り去ったサルは
あらゆるものを口に入れる行為が観察されたそうだ。

実験をした研究者の所見によれば、
本来生物は食べられないものに対する一定の危機感や恐怖感が存在するという。
これを食べると口が痛い。これを食べるとおなかが痛くなる。
これを食べると死に至る。
恐怖感を失ったサルは危機管理が一切できず、
何でもかんでも口にしてしまうのだとか。

恐怖感やそれから派生する保護本能といったものは
IQを低くする傾向にあるそうだ。
IQを低くすることで恐怖感を抑え、
保護本能を闘争心へと変えて相手を撃滅する。
実際よくできた脳のアルゴリズムといえよう。

が、IQを高くすることのみに熱中している人間は
闘争を野蛮視し、平和こそ至上、それを崇拝する人間こそ生物の極みとして
王冠をかぶり続けると捉えることが可能だ。

誤解なきよう述べるが、
「闘争を忘れた人間は家畜同様である」などと述べる気は毛頭ない。


その知性ゆえに多種との協調可能性を秘める人間そのものが至上であるとするならば、
「平和こそ至上」という皮をかぶった「安寧こそ至上」とする個別主義の闊歩が危惧対象であるからだ。

どんなにゆったり飛んでいる飛行機でも、
エンジンを止めれば墜落するしかない。
安寧を求めるのであれば、もともと離陸しなければいいわけだが
既に人間たちは知性の高みを求め、空高く飛んでしまっている。

今から着陸することは人間そのものが許さないだろう。
王冠をかぶった家畜が空を飛ぶという光景はいかにもシュールであるが、
パンドラの箱、知恵の実のごとく、知性を手に入れる対価は高くつきそうだ。
 1月が終わってしまった!

1月の成果報告をします。

★英語勉強(主にリスニング、単語暗記)の習慣づけに成功した
★ブログを毎日欠かさず(1日はつけてないのが残念)書くことに成功した
★久しぶりにTOEICの受験を開始した
★部屋の模様替えをして準最適化した
★論文を30本読んだ(1日平均約1本)
★陰極管と仲良くなった
★イラストの練習を開始した

1か月の内容にしては結構充実している気がします。
が、実績、実体として残っているものが少ないのが残念。

2月も頑張らねば。

2月は引っ越しです。
3月の頭からは一人暮らしなので、その準備に当てます。
論文の仕上げもあるので大忙しだな。

そして2010年度ロボットフィールドプロデュースの最終回も控えております。

ここ数年ロボット工作教室を開催してきたわけですが、
2011年度からは今までのスタイルを一新することになりそうです。

2011年は電電自身の起業も視野に入れて精力的に動く所存です。
とりあえず2011年開始1か月の総括でした。
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photo by 七ツ森  /  material by 素材のかけら
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