何らかのエクセルファイルをオフィス2007で開こうとした場合。
「メモリが足りません」
だってさ。
3GB積んだマシンでメモリ不足などあろうはずがない(笑)
解決策は案外あっさり見つかったけど、これはわからんわ!
http://xwin2.typepad.jp/xwin2weblog/2008/09/office-2007inte.html
先日のブログでRAMディスクを導入したと書いたが、
IEの一時ファイル保存フォルダを変更したのがまずかったようだ。
IEとオフィスがこんなところでつながっているとはねぇ。
一時ファイル保存フォルダをCドライブに戻したらちゃんと解決しました。
参考まで。
「メモリが足りません」
だってさ。
3GB積んだマシンでメモリ不足などあろうはずがない(笑)
解決策は案外あっさり見つかったけど、これはわからんわ!
http://xwin2.typepad.jp/xwin2weblog/2008/09/office-2007inte.html
先日のブログでRAMディスクを導入したと書いたが、
IEの一時ファイル保存フォルダを変更したのがまずかったようだ。
IEとオフィスがこんなところでつながっているとはねぇ。
一時ファイル保存フォルダをCドライブに戻したらちゃんと解決しました。
参考まで。
PR
仕事でも勉強でも、
始めるためには「やる気」が必要であると考え、
そのスタートダッシュのためにだらだらと時間つぶしをしてしまう。
はたしてその時間つぶしでやる気が出た試しがあるのか。
個人的にはなかったように思う。
いつの間にやら数時間。
もったいなかったと後悔しつつも繰り返す。
ここではやる気を出すための手法に関しては言及しない。
むしろその無駄時間をいかに有効に使うかを考えよう。
時間があったらやっておきたいことは多い。
それをなぜやらないのか。
なぜなら「やらねばならないタスクより優先度が低いと思っている」からである。
ちょっとロボットの回路を作っておきたいなぁ。
でも論文も書かなきゃならないしなぁ。
ロボットの回路はいつでもできるから、論文を書くことに専念しなきゃ。
でもちょっとやる気が足りないなぁ。
ちょっとネットサーフィンで気晴らしでもするか。
よくあるパターン。
優先度が低かろうがやりたければやってしまったほうが「勝ち」である。
ネットサーフィンなどは決して優先度が高いわけでも是非やりたいことでもないはずなのだ。
無駄に過ごすくらいなら優先度が低くてもやりたいことを。
始めるためには「やる気」が必要であると考え、
そのスタートダッシュのためにだらだらと時間つぶしをしてしまう。
はたしてその時間つぶしでやる気が出た試しがあるのか。
個人的にはなかったように思う。
いつの間にやら数時間。
もったいなかったと後悔しつつも繰り返す。
ここではやる気を出すための手法に関しては言及しない。
むしろその無駄時間をいかに有効に使うかを考えよう。
時間があったらやっておきたいことは多い。
それをなぜやらないのか。
なぜなら「やらねばならないタスクより優先度が低いと思っている」からである。
ちょっとロボットの回路を作っておきたいなぁ。
でも論文も書かなきゃならないしなぁ。
ロボットの回路はいつでもできるから、論文を書くことに専念しなきゃ。
でもちょっとやる気が足りないなぁ。
ちょっとネットサーフィンで気晴らしでもするか。
よくあるパターン。
優先度が低かろうがやりたければやってしまったほうが「勝ち」である。
ネットサーフィンなどは決して優先度が高いわけでも是非やりたいことでもないはずなのだ。
無駄に過ごすくらいなら優先度が低くてもやりたいことを。
うわさのGoogleChrome(ネットブラウザ)を使用してみた。
リンクをクリックしてから表示されるまでのスピードが速い!
いいねぇ。
んでもってさらに現在搭載しているメモリ3GBのうち1GBをRAMディスクへとシフト。
そのRAMを一時ファイル保存に利用すると・・・
うむー、さくさく動いてくれるブラウザは気持ちのいいものです。
お試しあれ~
リンクをクリックしてから表示されるまでのスピードが速い!
いいねぇ。
んでもってさらに現在搭載しているメモリ3GBのうち1GBをRAMディスクへとシフト。
そのRAMを一時ファイル保存に利用すると・・・
うむー、さくさく動いてくれるブラウザは気持ちのいいものです。
お試しあれ~
そもそも「自分にとってのチャンス」を定義してる人はそういない。
そういった意味でチャンスとはかなり直感的なものなのだろう。
チャンスをモノに出来る人というのは
1.自分にとってのチャンスがどんな物であるかを決めている
2.普段から小さいチャンスをモノにする癖を身につけている
この2つがポイントになる。
周りには就職活動をしている友人達が多いが、
今の彼らは「自分のチャンスがどんなものか」を考えているに違いない。
それが面接の場であれ、就活生同士の情報交換の場であれ。
要するに「ほしいもの、したい行動、望ましい状況」が見えているからチャンスも見えるのだ。
逆に言うとそこまで追い込まれなければ、チャンスというものに縁が無いことになる。
こいつは問題だ。
直感的なチャンスだけではほしい人生も手には入るまい。
ここでの「直感的チャンス」とは
チャンスの質、タイミングを直感的に見抜く、といったかっこいいものではないことを断っておく(笑)
道に1000円札が落ちていた。
ぜひ見たかったマニアックなDVDを偶然ツタヤで見つけた。
先生の出張でレポートの提出期限がちょっと延びた。
阪神優勝で関連商品が若干安くなった。
せいぜいこのレベルだと捉えてほしい。
この類のチャンスをモノにするのは別に難しくもない。
チャンスに貪欲な人は「勝手に神の思し召し」を作ることが出来る。
友人と口論した → 素直になるチャンス
上司に怒られた → 自分と戦って勝つチャンス
エレベータが中々来ない → 階段を使うチャンス
知人が待ち合わせにちょっと遅れそうだ → 細かい仕事を先に片付けるチャンス
風邪をひいた → 食っちゃ寝が出来るチャンス
チャンスをモノに出来ない人はこれらを馬鹿らしく感じるようだ。
行うか行わないか、モノにするかモノにしないか。
間違ってはいけない。
モノに出来なかったチャンス、というものは存在しない。
自分でモノにしないことを選択した、という言い方が正しいのだ。
そういった意味でチャンスとはかなり直感的なものなのだろう。
チャンスをモノに出来る人というのは
1.自分にとってのチャンスがどんな物であるかを決めている
2.普段から小さいチャンスをモノにする癖を身につけている
この2つがポイントになる。
周りには就職活動をしている友人達が多いが、
今の彼らは「自分のチャンスがどんなものか」を考えているに違いない。
それが面接の場であれ、就活生同士の情報交換の場であれ。
要するに「ほしいもの、したい行動、望ましい状況」が見えているからチャンスも見えるのだ。
逆に言うとそこまで追い込まれなければ、チャンスというものに縁が無いことになる。
こいつは問題だ。
直感的なチャンスだけではほしい人生も手には入るまい。
ここでの「直感的チャンス」とは
チャンスの質、タイミングを直感的に見抜く、といったかっこいいものではないことを断っておく(笑)
道に1000円札が落ちていた。
ぜひ見たかったマニアックなDVDを偶然ツタヤで見つけた。
先生の出張でレポートの提出期限がちょっと延びた。
阪神優勝で関連商品が若干安くなった。
せいぜいこのレベルだと捉えてほしい。
この類のチャンスをモノにするのは別に難しくもない。
チャンスに貪欲な人は「勝手に神の思し召し」を作ることが出来る。
友人と口論した → 素直になるチャンス
上司に怒られた → 自分と戦って勝つチャンス
エレベータが中々来ない → 階段を使うチャンス
知人が待ち合わせにちょっと遅れそうだ → 細かい仕事を先に片付けるチャンス
風邪をひいた → 食っちゃ寝が出来るチャンス
チャンスをモノに出来ない人はこれらを馬鹿らしく感じるようだ。
行うか行わないか、モノにするかモノにしないか。
間違ってはいけない。
モノに出来なかったチャンス、というものは存在しない。
自分でモノにしないことを選択した、という言い方が正しいのだ。
気に入らない人がゼロという人はなかなかいない。
啓発的にゼロもしくはそれに近い人ももちろん存在する。
今回は前者に焦点を当てる。
世界も宇宙も基本として人間の脳の中にある。
結局は知覚しているものが人間の感じる「世界」だからだ。
ゆえに広義での善人悪人もかなり主観が入ることは言うまでもない。
ただ、必要以上に悪人の範囲を増やす必要も無いというのが今回のテーマとなる。
頭の中で嫌いな人に対する考えがループして鬱々となるといった経験は誰しもあるだろう。
それが非生産的であるということはかなり前のブログでも書いたし、
現在ではかなり一般的な考え方でもあろう。
しかしながら、「生産的ではないから非生産的である」というのも若干的外れな気がする。
「生産的」を「プラス」とするのであれば「非生産的」は「ゼロ」であろうか?
鬱々としたループに関して言えば、この場合での「非生産的」は「マイナス」を意味している。
人間の脳は対象を無意識のうちに分類する。
非常にアバウトな「好き・嫌い」というものから、高抽象概念的な「倫理的、非倫理的」といったものまで。
この考え方は以前ブログで記載した「人間がタグをつけて整理する」ことにつながっている。
その際に「自分が接触することで何らかの不快感を得る人」をどう捉えるかがポイントである。
不快感からの分類、タグ付けは非常に簡単で
「苦手」「不安」「嫌い」「悪人」などなど、わんさか勝手に集まってしまう。
これは「熟考」の名を借りて他人を必要以上に悪人たらしめてしまう危険性を秘めている。
たとえば部下の話をなかなか聞いてくれない上司。
聞かない割には説教ばかりで一方的なコミュニケーションをはかろうとする。
説教された後は窓際でコーヒーでも飲みながらグダグダと負のループが回り始める。
面と向かってはいえない反論。
バシッと文句を言ってやったことを考えたときの爽快感。
そんな妄想も含めてぐるぐると回る。
既にその上司は「苦手な上司」から「駄目上司」、そして「敵」へと変貌を遂げる。
いつの間にか、説教の内容は脚色され、現実離れした人物像が出来上がる。
そうしてしまえば楽で快感だからだ。
自分は悪くない。自分が正しい。
だけど本当は「自分を守りたい」というのが大きいのでは?
目標は上司の正確な人物像を自分の中に作り上げることではない。
まず自分が説教された要因を見つけ出して、自分で潰せるところを徹底的に潰す。
そういった意味で負のループは非生産的なんだと考える。
啓発的にゼロもしくはそれに近い人ももちろん存在する。
今回は前者に焦点を当てる。
世界も宇宙も基本として人間の脳の中にある。
結局は知覚しているものが人間の感じる「世界」だからだ。
ゆえに広義での善人悪人もかなり主観が入ることは言うまでもない。
ただ、必要以上に悪人の範囲を増やす必要も無いというのが今回のテーマとなる。
頭の中で嫌いな人に対する考えがループして鬱々となるといった経験は誰しもあるだろう。
それが非生産的であるということはかなり前のブログでも書いたし、
現在ではかなり一般的な考え方でもあろう。
しかしながら、「生産的ではないから非生産的である」というのも若干的外れな気がする。
「生産的」を「プラス」とするのであれば「非生産的」は「ゼロ」であろうか?
鬱々としたループに関して言えば、この場合での「非生産的」は「マイナス」を意味している。
人間の脳は対象を無意識のうちに分類する。
非常にアバウトな「好き・嫌い」というものから、高抽象概念的な「倫理的、非倫理的」といったものまで。
この考え方は以前ブログで記載した「人間がタグをつけて整理する」ことにつながっている。
その際に「自分が接触することで何らかの不快感を得る人」をどう捉えるかがポイントである。
不快感からの分類、タグ付けは非常に簡単で
「苦手」「不安」「嫌い」「悪人」などなど、わんさか勝手に集まってしまう。
これは「熟考」の名を借りて他人を必要以上に悪人たらしめてしまう危険性を秘めている。
たとえば部下の話をなかなか聞いてくれない上司。
聞かない割には説教ばかりで一方的なコミュニケーションをはかろうとする。
説教された後は窓際でコーヒーでも飲みながらグダグダと負のループが回り始める。
面と向かってはいえない反論。
バシッと文句を言ってやったことを考えたときの爽快感。
そんな妄想も含めてぐるぐると回る。
既にその上司は「苦手な上司」から「駄目上司」、そして「敵」へと変貌を遂げる。
いつの間にか、説教の内容は脚色され、現実離れした人物像が出来上がる。
そうしてしまえば楽で快感だからだ。
自分は悪くない。自分が正しい。
だけど本当は「自分を守りたい」というのが大きいのでは?
目標は上司の正確な人物像を自分の中に作り上げることではない。
まず自分が説教された要因を見つけ出して、自分で潰せるところを徹底的に潰す。
そういった意味で負のループは非生産的なんだと考える。
スランプを経験しない人はそういない。
失敗を経験しない人もそういない。
それを次に活かすというのはよく言われていること。
ただ、次のステップが「復活」なのか「挽回」なのかを明確にして行動する人もそういない気がする。
少なくとも今までの私がそうである。
復活と挽回の間には大きな差がある。
たとえば競馬で10万円負けたとしよう。
次の競馬で10万円もしくはそれ以上勝つのが復活である。
競馬に見切りをつけたり、自分の中での競馬に対する価値をシフトするのが挽回である。
復活と挽回、どちらが望ましいかは一概に決定することは出来ない。
どちらが必要であるかを考えて行動すること自体が重要であるからだ。
ただ、そこに思考を入れず復活を目指すことのほうが多いのではないか。
逆に言うと、復活しなくても別にいいのに復活を目指して似たような失敗を再度する。
復活しなければいけないのに挽回の名を借りて現実逃避する。
今の職場になじめない、上司と仲が悪い。
だから会社を変えて挽回をしよう。
そうやって短いスパンで職を転々とし、最後には就職さえ出来なくなる。
復活にとらわれない、挽回の名を借りない。
選択の余地は常にある。でも選択肢には騙されない。
いま抱えている問題はどちらを選べばいいだろう?
失敗を経験しない人もそういない。
それを次に活かすというのはよく言われていること。
ただ、次のステップが「復活」なのか「挽回」なのかを明確にして行動する人もそういない気がする。
少なくとも今までの私がそうである。
復活と挽回の間には大きな差がある。
たとえば競馬で10万円負けたとしよう。
次の競馬で10万円もしくはそれ以上勝つのが復活である。
競馬に見切りをつけたり、自分の中での競馬に対する価値をシフトするのが挽回である。
復活と挽回、どちらが望ましいかは一概に決定することは出来ない。
どちらが必要であるかを考えて行動すること自体が重要であるからだ。
ただ、そこに思考を入れず復活を目指すことのほうが多いのではないか。
逆に言うと、復活しなくても別にいいのに復活を目指して似たような失敗を再度する。
復活しなければいけないのに挽回の名を借りて現実逃避する。
今の職場になじめない、上司と仲が悪い。
だから会社を変えて挽回をしよう。
そうやって短いスパンで職を転々とし、最後には就職さえ出来なくなる。
復活にとらわれない、挽回の名を借りない。
選択の余地は常にある。でも選択肢には騙されない。
いま抱えている問題はどちらを選べばいいだろう?
3年前に森政弘先生に頂いた言葉である。
「ロボットを学ぶは我を学ぶなり」
当時は「お~深いな~」なんて思っただけでそれ以上の思考がなかった。
修士2年生となり博士課程進学を控えた今、改めてその言葉をかみ締めている。
実際この言葉の意味は何なのであろうか?
なぜロボットを学ぶことが自分を学ぶことになるのであろうか?
一般に言われることとして、
ロボットを学ぶということは人間を学ぶことにつながっているということである。
元々は産業用として作業効率化のために導入されたロボットたちであるが、
そこには「人間を楽させてくれるロボット」というものが根底にある。
24時間ぶっ続けで、なおかつ正確な作業をしてくれるロボットたち。
やがて時代は進みロボットそのものの進化およびロボット技術(もしくは副産物)の転用が普及し始める。
特に日本のロボットはヒューマノイドやアニマロイドなど生物的な外見を持つロボットの研究がなされる。
そのテーマはさまざまではあるが、人間という生物の歩行が省エネであることに着目したものや、
不整地での走破性を求め多脚型ロボットの開発がなされたりと、
「人間の役に立つ」ことを前提として「生物をモデルに観察する」ことの重要さも浮かび上がってきたわけだ。
人間の柔軟な動きや思考をロボットとして再現することができたならば、
それは技術的に大きな躍進と言えるだろう。
では改めて、
なぜ「ロボットを学ぶは人間を学ぶなり」ではなくて
「ロボットを学ぶは我をまなぶなり」なのであろうか?
今でも明確な答えは得られてはいないが、
これまで考えてきた見解を述べておく。
この言葉は「子育て」にかなり近い思考を含んでいる気がする。
なぜなら「子が育つ」と同時に「親も育つ」からである。
親が育つというのは単純に経験を積むということに限らない。
子の幸せを願い、子が関わる人々の幸せを願い、どのように育てていくか。
そして、どのように子とともに歩んでいくのか。
そこでの親の覚悟決心が生半可なものでは務まらないということも確かにあるが、
そこに見える子と自分の幸せな世界。不安を振り切るだけの夢・ビジョン。
そこまであるなら、そこまであるのならば、初めてスタートラインに立てるのだろう。
自分がどんなロボットを作りたいのか。
ロボットたちが世界でどんな活躍をするのか。
単調作業的なものではなく、創造的でワクワクするもの。
それを生み出すために背負うであろう責任・義務・スランプ。
それを超えるワクワクとビジョンと覚悟。
俺は何を作るんだ?どうして作るんだ?どう作るんだ?
ロボットを学ぶは我を学ぶなり。
今ならわかる気がする。
「ロボットを学ぶは我を学ぶなり」
当時は「お~深いな~」なんて思っただけでそれ以上の思考がなかった。
修士2年生となり博士課程進学を控えた今、改めてその言葉をかみ締めている。
実際この言葉の意味は何なのであろうか?
なぜロボットを学ぶことが自分を学ぶことになるのであろうか?
一般に言われることとして、
ロボットを学ぶということは人間を学ぶことにつながっているということである。
元々は産業用として作業効率化のために導入されたロボットたちであるが、
そこには「人間を楽させてくれるロボット」というものが根底にある。
24時間ぶっ続けで、なおかつ正確な作業をしてくれるロボットたち。
やがて時代は進みロボットそのものの進化およびロボット技術(もしくは副産物)の転用が普及し始める。
特に日本のロボットはヒューマノイドやアニマロイドなど生物的な外見を持つロボットの研究がなされる。
そのテーマはさまざまではあるが、人間という生物の歩行が省エネであることに着目したものや、
不整地での走破性を求め多脚型ロボットの開発がなされたりと、
「人間の役に立つ」ことを前提として「生物をモデルに観察する」ことの重要さも浮かび上がってきたわけだ。
人間の柔軟な動きや思考をロボットとして再現することができたならば、
それは技術的に大きな躍進と言えるだろう。
では改めて、
なぜ「ロボットを学ぶは人間を学ぶなり」ではなくて
「ロボットを学ぶは我をまなぶなり」なのであろうか?
今でも明確な答えは得られてはいないが、
これまで考えてきた見解を述べておく。
この言葉は「子育て」にかなり近い思考を含んでいる気がする。
なぜなら「子が育つ」と同時に「親も育つ」からである。
親が育つというのは単純に経験を積むということに限らない。
子の幸せを願い、子が関わる人々の幸せを願い、どのように育てていくか。
そして、どのように子とともに歩んでいくのか。
そこでの親の覚悟決心が生半可なものでは務まらないということも確かにあるが、
そこに見える子と自分の幸せな世界。不安を振り切るだけの夢・ビジョン。
そこまであるなら、そこまであるのならば、初めてスタートラインに立てるのだろう。
自分がどんなロボットを作りたいのか。
ロボットたちが世界でどんな活躍をするのか。
単調作業的なものではなく、創造的でワクワクするもの。
それを生み出すために背負うであろう責任・義務・スランプ。
それを超えるワクワクとビジョンと覚悟。
俺は何を作るんだ?どうして作るんだ?どう作るんだ?
ロボットを学ぶは我を学ぶなり。
今ならわかる気がする。
2年ぶりに自分のパソコンをバージョンアップしました。
CPU Core 2 duo6600 → i7 920
マザボ ASUS P5B-epuls → GIGABYTE EX58-UD4P
メモリ 1GB → 3GB
HDD 1TB → 3TB
CPUファン フリーザー7 → 無限∞7
OS XP Home → XP Pro
うむむ、出費だぞ。
だけど体感スピードはやはり違いますねー。
たまになんかの拍子でもっさりすることはあるんですが・・・。
XPはいろいろ設定して軽くするようにはしてます。
ソフトの起動が一番早いかな?
そう考えると今のところQuad9650と比較すると体感では変わらんかも。
あーでも複数起動に強いのは明らかでした。
動画エンコードしながらPS2エミュ動かしてニコ動ストリーミングとかかなり余裕です。
若干CPUファンがうなりをあげるのが気になる(笑)
もうちょっと使い倒してみよう。
CPU Core 2 duo6600 → i7 920
マザボ ASUS P5B-epuls → GIGABYTE EX58-UD4P
メモリ 1GB → 3GB
HDD 1TB → 3TB
CPUファン フリーザー7 → 無限∞7
OS XP Home → XP Pro
うむむ、出費だぞ。
だけど体感スピードはやはり違いますねー。
たまになんかの拍子でもっさりすることはあるんですが・・・。
XPはいろいろ設定して軽くするようにはしてます。
ソフトの起動が一番早いかな?
そう考えると今のところQuad9650と比較すると体感では変わらんかも。
あーでも複数起動に強いのは明らかでした。
動画エンコードしながらPS2エミュ動かしてニコ動ストリーミングとかかなり余裕です。
若干CPUファンがうなりをあげるのが気になる(笑)
もうちょっと使い倒してみよう。
本日我がUNI.SUMMITは活動を無事終了致しました。
今まで関わってくれた人達に改めて御礼を言いたいです。
本当にありがとうございました。
さてさて、UNI.SUMMITは解散したわけでありますが
この度新規に団体を創設いたしました。
団体名「SaiS」(サイズ)
目的「学生が持つ英知を共有する」
テーマ「人間は最高の教師であり、最上のインターフェースである」
何か一つ、ピカっと光る「英知」を持っている人。
ここで言う英知とは賢さを意味しているわけではありません。
英知=知識+技術+行動+こだわり
私の人脈には団体運営者、プログラマー、コック、パティシエ、環境団体、小学校教師等がいます。
我々にはお互いには無い英知があります。
C言語が書けるのですか?それはただの技術です。
料理を作ったのですか?それはただの行動です。
大化の改新が何年だか知っているのですか?それはただの知識です。
なぜプログラムするのですか?
なぜ、誰のために料理を作ったのですか?
大化の改新が645年だということに何の意味があるのですか?
「私は次世代型のネットワークwikiを構築して新しい教育のスタイルを構築します!」
「私は多くの人に食の安全を訴え、日本の食文化に貢献します!」
「日本の歴史は日本そのものです。先人達の生き様を多くの人に伝えていきます!」
そう、それこそが英知である。
英知の礎となる知識は「生きて」いる。
死んだ知識はネット上にいくらでも転がっている。
生きた知識を活きた人間から直接教えてもらう。
生きた知識のギブアンドテイク。
そんなネットワークがどんどん広がっていけばいい。
そう、目指すのは
学びの本来のスタイルを取り戻すこと。
わけもわからず学ばされる時代から
自ら知りたいことを貪欲に探求し行動に移す時代へ!
今まで関わってくれた人達に改めて御礼を言いたいです。
本当にありがとうございました。
さてさて、UNI.SUMMITは解散したわけでありますが
この度新規に団体を創設いたしました。
団体名「SaiS」(サイズ)
目的「学生が持つ英知を共有する」
テーマ「人間は最高の教師であり、最上のインターフェースである」
何か一つ、ピカっと光る「英知」を持っている人。
ここで言う英知とは賢さを意味しているわけではありません。
英知=知識+技術+行動+こだわり
私の人脈には団体運営者、プログラマー、コック、パティシエ、環境団体、小学校教師等がいます。
我々にはお互いには無い英知があります。
C言語が書けるのですか?それはただの技術です。
料理を作ったのですか?それはただの行動です。
大化の改新が何年だか知っているのですか?それはただの知識です。
なぜプログラムするのですか?
なぜ、誰のために料理を作ったのですか?
大化の改新が645年だということに何の意味があるのですか?
「私は次世代型のネットワークwikiを構築して新しい教育のスタイルを構築します!」
「私は多くの人に食の安全を訴え、日本の食文化に貢献します!」
「日本の歴史は日本そのものです。先人達の生き様を多くの人に伝えていきます!」
そう、それこそが英知である。
英知の礎となる知識は「生きて」いる。
死んだ知識はネット上にいくらでも転がっている。
生きた知識を活きた人間から直接教えてもらう。
生きた知識のギブアンドテイク。
そんなネットワークがどんどん広がっていけばいい。
そう、目指すのは
学びの本来のスタイルを取り戻すこと。
わけもわからず学ばされる時代から
自ら知りたいことを貪欲に探求し行動に移す時代へ!
夢に向かって歩いているのに
なぜか今の仕事にモチベーションが持てない、なんてことがある。
ハードルが高いわりには地味な作業だったり、
雑用にしか思えなくなってしまったり、
いろいろ。
そんなときは頭の中をデフラグしてみるといい。
デフラグに関しては以前のブログでも書いたが、
若干その手法を改善してみたいと思う。
現在自分が持っているタスクを整理して優先順位を決める、というのは
かなりオーソドックスな方法であるが、今回は精神負荷パーセンテージを使用する。
現在頭の中で何がどれくらいのウェイトを占めているかを考えるのだ。
例えば先週の私を例にとって見よう。
論文執筆 55%
映画 10%
英語勉強 0%
留学生対応 15%
読書 10%
ロボット 0%
家族 5%
友人達 5%
圧倒的に論文執筆の占める割合が多いことが明らかになった。
ここで重要なのは、
頭の中を占める割合が大きければ重要事項であるというのは間違いだ、
ということ。
確かに私にとって論文を書くことは大事であるが
英語に対する意識が足りなくなっていたり、
本業であるロボットにまったく手がついていないのは問題である。
この配分は間違いであることがわかるのだ。
では理想の配分はどうだったらいいのか?
論文執筆 20%
映画 10%
英語勉強 15%
留学生対応 5%
読書 20%
ロボット 15%
家族 10%
友人達 5%
論文執筆の頭を占める割合をかなり減らし、
本来考えるべき英語とロボットに関する割合を増やした。
頭の中には思考のバリエーションを持たせて稼動させておかないと
だんだん効率が悪くなってくるようだ。
一つのことに専念している間、例えば論文執筆中は論文が100%であるが、
人間にはアイドリングが存在する。
ご飯を食べているとき、道を歩いているとき、友人と話をしているとき、
ゆったりと読書をしているとき、ネットでいろいろ文献を探しているとき。
そんな集中度が低くても大丈夫なアイドリング状態のときに
頭の中の精神負荷パーセンテージが理想状態でないと、
頭が落ち着かなくなり、パフォーマンスが圧倒的に落ちてしまう。
論文に追い掛け回されて押しつぶされそうな感じ。
英語もロボットも勉強してないというあせり。
論文が頭の中から離れないという嫌悪感。
普段この精神負荷パーセンテージをデフラグせずにカオス状態にしておくと
実際どれくらい自分の頭の中を占めているのかわからなくなってしまう。
今自分は何をどれくらい考えているのか。
それはどれくらい頭の中に入れておけば十分なのか。
重要だからといって頭の半分も占めてはいけない。
割合をぐっと小さくすると、かえって楽になってパフォーマンスもあがる。
なぜか今の仕事にモチベーションが持てない、なんてことがある。
ハードルが高いわりには地味な作業だったり、
雑用にしか思えなくなってしまったり、
いろいろ。
そんなときは頭の中をデフラグしてみるといい。
デフラグに関しては以前のブログでも書いたが、
若干その手法を改善してみたいと思う。
現在自分が持っているタスクを整理して優先順位を決める、というのは
かなりオーソドックスな方法であるが、今回は精神負荷パーセンテージを使用する。
現在頭の中で何がどれくらいのウェイトを占めているかを考えるのだ。
例えば先週の私を例にとって見よう。
論文執筆 55%
映画 10%
英語勉強 0%
留学生対応 15%
読書 10%
ロボット 0%
家族 5%
友人達 5%
圧倒的に論文執筆の占める割合が多いことが明らかになった。
ここで重要なのは、
頭の中を占める割合が大きければ重要事項であるというのは間違いだ、
ということ。
確かに私にとって論文を書くことは大事であるが
英語に対する意識が足りなくなっていたり、
本業であるロボットにまったく手がついていないのは問題である。
この配分は間違いであることがわかるのだ。
では理想の配分はどうだったらいいのか?
論文執筆 20%
映画 10%
英語勉強 15%
留学生対応 5%
読書 20%
ロボット 15%
家族 10%
友人達 5%
論文執筆の頭を占める割合をかなり減らし、
本来考えるべき英語とロボットに関する割合を増やした。
頭の中には思考のバリエーションを持たせて稼動させておかないと
だんだん効率が悪くなってくるようだ。
一つのことに専念している間、例えば論文執筆中は論文が100%であるが、
人間にはアイドリングが存在する。
ご飯を食べているとき、道を歩いているとき、友人と話をしているとき、
ゆったりと読書をしているとき、ネットでいろいろ文献を探しているとき。
そんな集中度が低くても大丈夫なアイドリング状態のときに
頭の中の精神負荷パーセンテージが理想状態でないと、
頭が落ち着かなくなり、パフォーマンスが圧倒的に落ちてしまう。
論文に追い掛け回されて押しつぶされそうな感じ。
英語もロボットも勉強してないというあせり。
論文が頭の中から離れないという嫌悪感。
普段この精神負荷パーセンテージをデフラグせずにカオス状態にしておくと
実際どれくらい自分の頭の中を占めているのかわからなくなってしまう。
今自分は何をどれくらい考えているのか。
それはどれくらい頭の中に入れておけば十分なのか。
重要だからといって頭の半分も占めてはいけない。
割合をぐっと小さくすると、かえって楽になってパフォーマンスもあがる。
カレンダー
08 | 2025/09 | 10 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | |
7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 |
14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 |
28 | 29 | 30 |
カテゴリー
フリーエリア
最新コメント
[01/24 ケロロ管理人]
[01/16 nas_iron]
[07/01 白石]
[03/11 北大サークル情報局運営委員会]
[09/13 うどんこしょういち]
最新記事
(12/09)
(10/11)
(09/06)
(08/23)
(07/15)
(01/16)
(01/16)
(06/28)
(01/30)
(01/01)
最新トラックバック
プロフィール
HN:
北のロボット博士
性別:
非公開
自己紹介:
北海道生まれ。
北海道にロボットフィールドを作ろうと日々奮闘中。
北海道にロボットフィールドを作ろうと日々奮闘中。
ブログ内検索
最古記事
(07/28)
(07/29)
(07/30)
(08/01)
(08/02)
(08/03)
(08/04)
(08/05)
(08/05)
(08/10)
カウンター
アクセス解析
カウンター