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時計の仕掛けに感動したければ、
時計を実際に作ってみればよい。

分針が1周する間に秒針が60回転する構造を自分で考えてみればよい。
簡単なようで、死ぬほど難しいはずだ。

やっとできて、リアルな時計と比較してみる。
その効率のよさに舌を巻くに違いない。

その生み出す苦労を知る、ということの尊さは
モノを目の当たりにして感動できるその度合いによって表現できる。
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今日は部長代理でサークルに出ておりました。
「創造力」「突破力」「社会的影響力」を教えた後で、
各個人に与えられた仕事を徹底的にイメージしたわけです。

どんなことをどんな風に、いつやるか。なぜやるか。
具体例を出したり、働いているところを想像させたり。

まずは仕事をしてもらうならば、本人が仕事をしているところを「想像」出来なければならない。
イメージできることはそのまま行動に移すことが出来る。

イメージできないことをどうやって行動すると言うのだ?
がむしゃらにやって出来ないことはないが、そのパフォーマンスは著しく低下するはず。

一緒にイメージして、内容の並列化を図る。
後はそれを維持できるかどうか。
「創造力」
「突破力」
「社会的影響力」

この3つだと電電は考えます。

なぜ自分たちが群れているのか、改めて問う。
そこにオリジナルが無ければ群れる意味など無い。
オリジナルは自然発生せず、自ら創造せねばならない。
ゆえにその団体の「創造力」が重要なのである。

ただし、創造的であることと創造力を持っていることは似て非なるものだ。
人間は想像的であるが、それが「空想」で終わることが大半である。
それを実現するためにはありとあらゆるハードルがあり、
その中には自分で勝手に作ったハードルすら存在する。
「時間が無い」「ノウハウが無い」「達成する自信が無い」「一人じゃ無理」
それらのハードルを「突破」して「実行」してこその「創造力」なのだ。
ゆえに創造するためにはそのベースとして「突破力」が欠かせないのである。

その実行した内容が空回りに終わることほど虚しいものは無い。
何らかの成果、影響、結果を残せなければやらなかったも同じ。
実行内容は常に広かれ狭かれ誰かに影響を与えている。
そこに大小の差はあれど社会的影響力があるわけだ。
ゴミを拾って道をきれいにするのも社会に対する影響なわけ。
ゴミ拾いをしたつもりが、大してきれいにならなければ
道路に影響を与えたことにはならない。
自分たちの活動が何を目指し、結果としてどの社会にどんな影響を与えたのか。
また、影響を与えられるのか。
そのパフォーマンスの高さが重要な要素になることは間違いない。
生まれて初めてお告げがありました。
別に神様のお告げとかじゃないですよ。
誰かが夢の中で私に言うのが聞こえたのです。

「団体を引き継ぐのってねぇ、他人が書いたプログラムみたいなもんなんだよ」

なるほど!って思ったら目が覚めた。
プログラミングをやった人にしか分からないかもしれないけれど、
人の書いたプログラムというのは本当に読みづらい。

何をどうやってどんな風に動かしているのかが見えてこないと、
ただの文字の群れにしか見えないんだな。

それを具体的に説明してもらったり独力で解読して初めて機能する。
団体も同じで、単に丸投げしても機能しない。
継承対象者に団体がなんであるか、システムがどうなっているか
どこをどうすれば何が機能するかまで継承しなければ機能が圧倒的に下がってしまう。
1年前とは比べ物にならないほど本を読んでいます。
とはいっても1年前はまったく読んでなかっただけなんですが(笑)

ただ、最近思うのは
「読書した内容ってちゃんと頭に入っているのかな」
ってことなんですね。

読書の基準を設ける必要がある。
本を眺め、字を追うのは誰でも出来る。
では「読書」とはなにか。

電電の場合の「読書」には以下の条件がある。

1.表紙を見たら内容を5分くらいでプレゼンできる
2.会話の中で引用することが出来る

以上2つだけだ。
このブログでは今までミヒャエルエンデの「モモ」は何度か引用したが、
そういう意味では電電は「モモ」を「読書」したことになるのだろう。

1.と2.が出来るということは内容を体系的に捉えたということであり、
それを自分の行動・思想に活かせるかどうかも判断可能だ。

あなたにとっての「読書」の定義とは何ですか?
快楽を好む、という言葉は一見二重に見えるが、そうではない。

「快楽」というとあまり良いイメージはないが
ここでは単純に「頭の中が気持ちよくなる現象」とする。
それ以上でもそれ以下でもない。

それ以上でもそれ以下でもない、ということは
「快楽」という単語を「一切のイメージを捨てて捉える」ということだ。

人間は頭の中が気持ちよくなるように生きる性質がある。
それが生きる、生き残るということなのかもしれない。

それが堕落した人間であれ、ストイックな人間であれ、根本は同じだと考える。

俗に言う堕落した人間であれば無計画なギャンブルに身を投じ、酒を浴び、
定職にも就かず、ひたすら即物的な快感のみを求めるといったイメージがある。

反対に修行僧のように自分をひたすら戒め、勉学に励み、耐え耐え耐え抜くという人間も存在する。

だがしかし、その行動を選んでいると言うことはそれが自分にとって最も「気持ちいい」のだろう。

ギャンブルもお酒も楽しいだろう。
みっちりと修行・トレーニングするのも楽しいだろう。

だがそこに大きな差は存在する。
その差をイメージではなく具体的に語れる人がどれだけいるだろうか。

電電が思うに、その快楽の差は
「人間の中にあるか外にあるか」ではないだろうか。

ギャンブル、酒といったものにおぼれる場合、その快楽の対象は人間の「外部」に存在する。
がしかし、修行やトレーニングは自分と向き合うことであり、「高まった自分を好む」ことに相違ない。

どちらがいいかは本人が選ぶことであって、どちらがいいかは不明だ。
もちろん後者を選ぶ人が多いのは言うまでもないが、前者に陥る人が多いのも事実だ。

自分が求めているもの、快楽が自分の外にあるのか中にあるのか。
本日フランクリン手帳の3週間お試しパックを買ってきた電電です。

いくつか種類があるみたいなので、とりあえずお試しで。

手帳は買わないつもりであったが、
最近オリジナル手帳に行き詰まりを感じる。
いつもこれじゃないこれじゃないと思いながら書き綴る。

やはり先日ブログで書いたように
「創造力、応用力は基礎力から生まれる」ということを頭に刻み、
うわさのフランクリンを試してみようと言うわけだ。

いろいろ使ってみてレビューを書いてみよう。
人と違ったことがしたい。
そう思っている人は大いに違いない。

電電もそう願ってやまないが、最近痛感したのは

「本当に人と違うことが出来る人というのは人と同じことも十分に出来ている」

ということなんだ。
いつもオリジナリティばかり求め基礎さえもおろそかにすると
最終的にはロークオリティの出来損ないしか創造することが出来ない。

オリジナリティを求めるあまり、基礎を敬遠しがちだ。

「普通である」ということと「基礎的である」ということは切っても切れない縁にあるのだ。
議題があり、それに関して討論する際
もちろんのこと人々は意見をいう。

ところが、賛成にしろ反対にしろなんとなくズレたことを言う人がいる。

例を挙げよう。
先日「マイカーを持つべきかどうか」といった議題に関してAさんが意見を述べた。
「基本マイカーは要らないというのが私の考え。
マイカーを持つ必要が明確でなかったり、市営交通類で事足りる場合は
持たないほうが経済的である。」
との意見を出した人がいた。

それに対する「ピントのずれたBさん」の反対意見。
「私は自分の母を介護せねばならず、その仕事のためにもマイカーは生活に欠かせない。
環境に悪いことはもちろん分かっているが必要な人は持ってもいいと思っている。
そんなことも分からずマイカーを捨てろという人の考えが理解できない。」

ピントがずれているのは一目瞭然だが、Bさんは大真面目だ。
ずれている点を明確にあげるとすると、

Aさんは「どうしても必要な人以外は持たないほうがかえって経済的」と言ったのに対し、
Bさんは「介護活動にはマイカーが欠かせないのに、どうしてマイカーを要らないと言うのか?」と。

AさんからすればBさんはマイカーが必要な人であるのに、
まるでBさんはAさんから意見攻撃されたかのような気になってしまったようだ。

第三者から見れば明らかなことも、当人になるとどうしてか「飛んで」しまう。

この現象に対する電電の考察は、
人間とは相手の考えと自分の考えが正反対だと「思う」と、
一種思考の臨戦態勢に入ってしまうのではないか、ということなんだ。

臨戦態勢に入った脳は、崩されまいとしてさまざまな思考防壁・論理防壁を構成する。
Bさんの脳はAさんの「基本マイカーは要らない」という最初の文章で臨戦態勢に入り、
「私の生活にはマイカーが欠かせないのに、要らないという意見が通ってしまったら大変!」
となったのではあるまいか。そこでBさんの脳はそれに対抗するべく「武器」を用意する。

「私は介護をしているからマイカーは絶対必須」
「人にはいろいろな環境があってそれによってはマイカーも許されるべき」
「環境に悪いと言うことも把握したうえで言っているということをアピール」

おそらくこの「武器」を用意するために多くの思考力とエネルギーを使用し、
Aさんの意見を包括的に捉えることが出来なくなった、というのが電電の推測だ。

ちなみにこの推測は電電の経験にも基づいているw 私も経験ありますよ。


相手の意見に反応し、即座に自分の論理展開が出来るのは大事ではあるが
Bさんのように的外れにならないことが重要であろう。
そのために必要なのが「引っ張られない力」だと電電は考える。
Bさんは典型的な「賛成派」に勝手に「引っ張られた」のではないか。

この議題「マイカーは必要か」というのは結論として「必要・不必要」の二者択一を求めているのではなく
マイカーというものを考え、その捉え方を改める(再認識する)ところにその目的がある。

思考の多様性を兼ね備えた、「二者択一に引っ張られない力」が意見をいう力だ。
先日あまり凝るのはよくないといった内容を書いたが、
いろいろと考えてみて、スケジュールや家計簿にそれが該当するかもしれないと思った。

いまスケジュール記帳や家計簿がおろそかになっているが、
書き込む内容が凝っていて手間がかかりすぎている気がする。
よって後回しになったりして最終的にまちまちになってしまう。

計画も家計簿も継続させなければ意味がないものなので、
まずは「いかに管理するか」よりも「どう管理を継続させるか」を優先すべきだろう。
管理方法をこったものにして継続性を失うわけにはいかない。

継続が習慣化しっかり出来たところで、いろいろとノウハウを吸収して改革していけばよい。
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