
新年初グリグリ思考~
さて今回のお題は
「情報に魂は宿るのか?」
ここでの魂はかなり広い意味で捉えてください。
物質に魂が宿るという現象は日々実感していること。
人間もそうだしすべての動植物がそうである。
また、概念としての魂であれば、美術品にも魂が込められているといえる。
何をそんな抽象的な、と思われるかもしれないが
「モノを創造する」とは自分の分身を作ることに他ならない。
自分の頭の中にあるものを外界の物質を用いて具現化し、
魂の持つ時間を消費してそれを完成へと導く。
繁殖も成長もしないが、それはやはり魂の分身なのである。
さて本題に入ろう。
これまでは物質に魂が宿ることを述べてきたが、
実体をもたないものに魂が宿るかどうかを考えたい。
結論から言うと「ありえる」というのが電電の意見である。
なぜなら、芸術作品と呼ばれるものは実態を持たないものも多いからだ。
歌、思想、哲学、物語、技、などなど・・・。
しかもそれらはその本体を物質的に保存しなくても生き続けることが可能で、
さらに物質の力を借りて増殖することが可能である。
その実態を持たぬ魂達は後世にわたり人々に影響を与え続ける。
そういった意味で、死んだ人が生きている人の胸の中に生き続けるというのは
ドラマチックなセリフでもなんでもないのである。
まさに文字通りだ。
一年の計は元旦にあり、ということで目標設定をしよう。
2010年の目標コンセプト:「一流エンジニアに必要な基礎力を作ろう!」
1.月~金は9時5時で規則正しい勉強生活を送る
2.ホームロボットを完成させてニコ動にUPする
3.海外学会に出る
4.就職先情報を集めて、的を絞る
5.フォトリーディングをマスターする
6.貼るだけ家計簿をみっちりつける
7.英語論文を読めるリーディング能力を開発する
8.パソコンに高速かつ大容量SSDを搭載する
9.数学、物理の基礎学習をマスターする
10.コミュニケーション・プレゼン用に絵心を開発する
11.アーキテクトのシステムを完成させる
12.修士論文を書き上げて無事に卒業する
13.M2で卒業旅行をする
14.PHP、FLASHの達人になってKNOWSを稼働させる
15.SAISのシステムを完成させる
16.世界的文学の見識を深める
うーん、まだまだありそうだなぁ。
とりあえずざくっと書いてみました。
掘り下げるにはもうちょい時間がかかりそうですが、追々ということで。
今年もがんばろぅ~!!
1.サンタした
2.アーキテクトのシステム基礎を作った
3.そこそこ本を読んだ
4.はじめてのオリジナルロボットを1からくみ上げた
5.論文を一本投稿して採録された
6.Inteli7とWindows7を搭載した
7.SAISをスーパーバイザーとして創設した(頑張れよ代表!)
目新しいことと言えばこの7つくらいです。
電電が研究者としての達成は2,4,5あたりが重要になってくるでしょう。
来年はもっといろいろなことを成し遂げたいと考えています。
まぁなにを成し遂げるかは元旦に書くとしましょうか。
それにしても今年も仲間に恵まれました。
やはり仲間は何にも代えがたい財産であることは間違いない!
来年も良き仲間に恵まれますように。
では
「あいつはモノの考え方がおかしい」
という見解はそもそも成り立たない。
なぜなら「見解の相違」で満足する人間などほとんどいないからだ。
ホームレスに施しをするかどうか。
人工中絶を許容的に支持するかどうか。
鳩山政権を支持するかどうか。
エクソシストをどう評価するか。
パソコンを数か月に一度買い換える電電は浪費家なのか(笑)
いかにも見解の相違とやらが現れそうな議題をあげてみた。
一つ一つに関してここで私の見解を述べることはしない。
人によって意見がさまざま出るであろうことが予想できればここではよしである。
重要なことは「人によって意見が違う」という事実を受け止めることではない。
その人の意見がどのパラダイム(視点)に基づいて、どのような解答方程式が構築されているか、である。
人が持つデータとその分散具合が各々違う以上、
各人が持つ解答を導くための方程式が変わるのは至極当然である。
そこまで知っていながらまだ理解できない人はいる。
「あいつは俺が持っているデータを持ってないからそんなくだらない見解になるのだ」と。
では自分は「あいつ」がもつデータを持っているかといえば、持ってはいない。
単に自分と比較して欠落部分を抽出したにすぎない。
これは依然ブログでも出したネタではあるが再度掲載する。
この「自分が知っていることは相手が知ってて当たり前」的な思考回路は
幼少期の人間がもつ特徴の一つであり、
自分が相手より判断データが多いことで優越感を持つことは「頭が幼い」ことに他ならない。
数年前からの情報化社会の波によってその傾向が顕著になったように感じる。
情報は鮮度が命。
情報は正確さが命。
情報はバリエーションが命。
確かにそうだろう。
がしかし、自分が満足するほどそれらの情報を得ることは難しい。
しかも人間はお互いの持つ情報の並列化さえ満足に行うことが出来ない。
最も意識すべきことは、個人が持つ解答方程式がどのような意味を持つか考察することである。
ここで具体例をあげよう。
ライオンの数はどう増えるのか。
食物連鎖の見地から小学生でも知っている内容ではあるが、
ひと昔前の生物学者、動物学者たちは真剣に悩んでいた。
一人の学者は、一匹のライオンが生む頭数を考えた。
一人の学者は、全体数が年ごとにどう変化するかを考えた。
一人の学者は、ライオンが死ぬ原因を考えた。
結果として、「ライオンはそのうち絶滅する」「ライオンが世界を支配する」
などといったまちまちな意見ばかりが生まれてしまう。
がしかし、その意見の一つ一つはある意味ちゃんと筋が通っていることに注意だ。
全体数の推移を調べた学者は、少しずつ減っていく傾向に目をとめ
このまま減っていけば何年後に絶滅するかを予測した。
ライオンが食物連鎖のトップであることを知った学者は、
ほかの動物を食べつくせば世界の頂点に立つと予測した。
実際には増えたり減ったりを繰り返しながら、平均的な数はあまりかわらない。
もちろん絶滅危惧種であればその平均的な数字が減少傾向にある。
どんどん増えると考えた学者は年と頭数が比例するという単純な解答方程式を作った。
絶滅すると唱えた学者も同様。
実際には餌の多さによってある程度の頭数でライオンは頭打ちになるのだ。
結局熾烈な縄張り争いと相まってライオンは減少していく。その繰り返し。
その場その場のデータと自分の見解をマッチングさせてもさほど誤差は出ない。
自分が作ったその解答方程式が過去、未来でも同じようなことが言えるかどうかまで
考察することができなければ、まるで使い物にならないであろう。
そういった意味で、人間が日々アップデートするべきは
新しい情報に加えて、新しい解答方程式なのである。
対戦相手にとっては一撃を入れるチャンスであるが、
ここで迷わず一撃を入れる勇気があるかどうかが分かれ目である。
なぜならば攻撃に転じてしまえば、相手のスキがフェイクだった場合に
一気に不利になってしまうからだ。
そしてその不利な状況は一瞬にして敗北へとつながる。
反撃が怖いのだ。
上級者が伸び悩む一因としてこの「一撃のためらい」があるという。
格闘の仕方がわかってきただけに、その知識と経験が拳を遅らせる。
我々の生活においてチャンスなどはいくらでも転がっているが、
その多くはカウンターパンチとしての反撃力を持っている。
告白のチャンス→NOだった場合に今の関係すら気まずくて続けられない恐怖
昇進のチャンス→責任という両肩にのしかかる重圧に対する恐怖
まだまだいくらでも例はあろう。
そういった意味で人間は現状維持が好きなのである。
チャンスは多くの場合一瞬である。
しかしながらここに多くの誤解がある。
チャンスが一瞬で逃げてしまうのではなく、
自分が一瞬で逃げ腰になるのである。
チャンスは逃げない。
ドラえもんの秘密道具に「リアルキャップ」ってのがある。
この帽子をかぶって妄想すると、妄想したものが目の前に現れる!
という道具。
もちろんそれは幻で、本人にしか見ることができない。
本編においてのび太はこの帽子でスネオに対抗すべくラジコンを出す、というストーリーだ。
ここで二つの問いを読者に考えてもらいたい。
まず一つ。
誰でもいいから身近な人を思い浮かべて下さい。
その人は「存在」するだろうか?
現れたと同時に消滅してしまうような脆い物質、
それは果たして「存在した」と言えるだろうか?
一つ目の問いの答えはおそらく「Yes」だろう。
二つ目は意見が分かれるかもしれないし、
設問にそもそも問題があると言われるかもしれない。
この問いの答えそのものにさして意味はない。
人間が「何かの存在」を確実視するための要素がいかに不安定か、
ということが言いたかったわけだ。
ここで人間の心理に面白い特徴を見出すことができる。
「疑わしくなければとりあえず無意識に信用し、現実的な存在感を持つ」という特徴だ。
たとえば、シーラカンスの存在を疑わなくても、ツチノコの存在を疑う、といった場合。
両方とも実際に見たことがないにも関わらずここまで印象が違うのはなぜか。
シーラカンスもツチノコも写真は出回っているではないか。
しかしながら決定的に違うのは、その写真の出どころである。
シーラカンスは生物系科学雑誌に掲載されるのに対し、ツチノコは都市伝説雑誌等に掲載される。
つまりシーラカンスの存在を信じているのではなく、
シーラカンスの存在を述べる人に対し「疑わしくない」という印象があるだけなのだ。
すこし視点を変えてみよう。
ここで読者に再度考えてもらいたい。
「色」は存在するだろうか?
少しでも物理学に通じる人であればこの問いの意図をわかって頂けるかと思う。
結論から言うと、色は存在するとも言えるし、存在しないともいえる。
本来色とは、光の持つ特定の波長に対して人間の視神経が反応した結果、脳内に情報として受け取られる。
リンゴに白色光が当たると特定の波長だけが反射し目に入る。
その特定の波長の光を人間は「赤」と判断するわけだ。
要するに「色」という概念は人間の脳の中にしか存在しないってことだ。
現実世界では光を反射する物質の違いが存在するのみである。
同じように遠近感というものも人間の脳の中にしか存在しないが、
左右の視界差からそれが現実的だと思ってしまいがちだ。
人間は一度現実感を持ってしまった情報を疑うのが苦手である。
なぜならその現実感は無意識に形成され、なおかつ理論的でもなんでもないからだ。
最後に。
読者諸君、まず自分のフルネームを思い浮かべてほしい。
さて、それは本当にあなたの名前ですか?
発音の仕方や口の動きを意識して数分間自分の名前を呟いてみるといい。
ほら、疑わしくなってきた!
わかりそうでなかなかわからない。
「わかる=理解する」
ということなのであれば、
「理(ことわり)を解く」ということなのであろう。
「わかる」という単語そのものを自ら「理解」していなければ、
ありとあらゆることを理解することはできず、理解させることもできない。
新たな知識を理解することを想定するならば、
なぜ理解することが困難であるかを理解せねばならない。
自らにとっての新たな知識とは言い換えるならば
「陸の孤島」ならぬ「知識の孤島」「脳の孤島」である。
例えるならば、「非常識」は「常識」というカテゴリがなければ存在しえない。
ゆえに、一般にいうところの「非常識な人」というのは
自らの「識」が「社会的孤島」であることを理解せず、
理解しないがゆえにその「識」が自らにとっての「常識」たりえるのだ。
逆にいえば、「常識人」とはその常識そのものが「大きな孤島」と捉えることも出来る。
大きな「常識」が孤島になる可能性を秘めていることを理解せねば、
「非常識」はただの「識の外」にしかならず「非常識」を理解することも出来ない。
実際に日本の技術をはじめ、多くの分野で「ガラパゴス化」が見られるというのは
ここに起因すると考えることが出来よう。
では「わかる」ために「知識の孤島」を脱することは可能だろうか。
個人レベルでそれを達成することはさほど困難なことではない。
そのためには孤島を理解し、孤島が孤島である理由を理解すればよい。
孤島は孤島であるがゆえに自らを評価することが困難である。
自らが長身であるかどうかは他人と比較せねば評価できない。
評価して初めて、自らが長身であることを理解できる。
その時点で自らの知識が「長身」というカテゴリとの交通網を確立できる。
いつしかそのカテゴリは自らの知識に内包され、年月を経て孤島へと変貌を遂げる。
密林の奥地に住む先住民達にブログを理解させることは至難の業である。
彼らにとってブログとは完璧な知識の孤島である。
ブログを家や狩猟の道具、雨や木で評価することが困難だからだ。
がしかし、家があるならば電話を理解させることは出来るかも知れない。
誰かと話をするために家を出ねばならないという面倒を解消する便利なものがあると。
もちろん通信や電気などをいちいち理解する必要などここにはない。
「家」「言葉」「仲間」といった知識があればなんとか評価することが出来るからだ。
電話が理解できればFAXも理解できるかもしれない。
FAXが理解できれば・・・
といったように、いくつもの知識の孤島へ交通網を作り
最終的にブログを評価するだけの交通網が完成する。
なぜ「わからない」という現象が生じるのか。
それは「理解したいモノ(孤島)」へたどり着くために、
どの孤島からどの孤島へと歩めば目的の孤島へたどり着くかが見えないからである。
いくつもの交通網を経て人間はモノを理解する。
「何がわからないかがわからない」といった現象は
どこか遠い孤島で道に迷った状態をいうのかもしれない。
知人のブログにコメントしてて、
非常に長くなったので自分のブログにも掲載することにした(笑)
「価値観」
それは、誰のニーズをどれくらい満たすのか。
誰も必要としないものには価値は無い。
逆に、万人に必要なモノに対して価値観はさほど必要無い。
人間にとって水が必要かどうかで議論は起こらない。
もちろん健康や資源論としての議論は起こる。
それは水というより健康や資源といった価値観を通して水を見るからだ。
人によって必要だったり必要なかったりするとそれこそ価値観の出番。
教育が必要かどうか。
生活保護制度が必要かどうか。
パソコンが必要かどうか。
高速道路無料が必要かどうか。
原子力発電所が必要かどうか。
KYとはある意味「人のニーズが理解できない」人を指す。
ここで重要になるのは
「人のニーズを知っている」ことではなく、
「その人のニーズがなぜ存在するのか」を理解するかどうかだ。
具体例をあげよう。
ファミレスで食事中に煙草を吸う人、吸わない人。
二人が同席した場合を考える。
まず、喫煙する人がKYであるとしよう。
同席している人物が「タバコが嫌い」というぐらいの認識しかない。
では「タバコを吸いたくないというニーズ」がどこから来るのか。
本人は食事を楽しむのは味だけではなく香りもそうであると考えている。
実際鼻をつまんでモノを食べると味はなかなかわかりにくいものだ。
ゆえに、食事中に煙草を吸う人の気がしれない、ということになる。
煙草を吸い慣れている人はそれほどにおいを気にしない。
だから相手のニーズが理解しづらいという問題点が出る。
匂いが食事に及ぼす影響はとても大きい。
試しに焼きそばにパルメザンチーズをかけてみると良い。
動物園のゾウのにおいがしてくるはずだ(笑)
以上より、「食事中に煙草吸うなんておまえKYだな」となるわけだ。
では次に、煙草を吸わない人がKYだとしよう。
彼は食事とは味覚や嗅覚等、五感で楽しむものであるというこだわりがあり、
そのこだわりそのものにも自信があると同時に、
料理を提供した側に対する礼儀であると考えている。
彼にとっては食事中の禁煙は料理に対する冒瀆以外の何物でもない。
しかしながら彼は、相手がなぜ喫煙をするのかに理解がない。
相手はタフな一日を終えて、相方と他愛もないおしゃべりをしながら食事を楽しみ、
一服することに本日の自分への報酬としている。
高級料理を食べているわけでもなく、煙草自体は店側も容認している。
ゆえに、ファミレスの定食に五感をフルで使うやつの気がしれないのだ。
結果「ファミレスで独善的な持論を展開するなんてKYなやつだ」となる。
双方とも相手のニーズに理解がない時点でKYなのである。
ゆえに、価値もしくは価値観といったものは
金額等で定量評価できるもの以外は、その優劣は存在しない。
優劣が存在しないがゆえに「価値観」なのである。
ニーズという視点からは離れるが、
KYという点に関して過去に興味深い実験がなされている。
なぜ子供はKYなのか、という実験だ。
まず、子供に牛乳パックを見せて質問をする。
「このパックの中には何が入っているのかしら?」
子供はすかさず
「その中には牛乳が入っているよ!」
と答える。
そこで実験担当者が牛乳パックをあけてみると、牛乳ではなく
中にはリボンが入っていた。ちょっとしたびっくり箱である。
そこで改めてその子供に質問する。
「家に帰ってお母さんにこの牛乳パックを見せたら、
お母さんは中に何が入っていると思うかしら?」
子供はすかさず
「リボン!」
と答えたそうだ。
実験の一例に過ぎないが、多くの子供にこの傾向が見られたそうだ。
子供がなぜKYなのか。それは、
「自分が知っていることや思っていることは、
他の人も知っていて、同じように思っている」
という裏付けのない先入観があるからだ、と結論付けられたわけだ。
この実験に基づけば、KYとは無意識かつ独善的であり、
思考プロセスが低年齢的であるということである。
一般に「大人とはどんな人か」との問いに対し、
「気使いができる人」
「人の話に耳を傾けられる人」
「視野が広い人」
等等の答えが得られるのは、
KY=「大人ではない」という考え方があるからではないだろうかね?
実際KYとはかなり広い意味を持っているように思うので、
「KYとは」を考えた上でそれをどのように使うか、じゃないかな。
空気を読んで遠慮して行動出来ない人になってしまうのであれば、
むしろ敵を作る可能性を知った上で空気を読まず行動に出た方がよっぽど良い。
最近自分は伸び悩んでいるなぁと思うことは誰しもある。
理由はいろいろあるだろう。
何かしらのハードルにぶつかった。
なぜ伸びないのかがわからない。
どこを伸ばせばいいのかすらわからない。
等々・・・。
逆にこれらの色々ある理由によって根本的な問題を忘れがちである。
答えは「伸び悩む」という単語自体に潜んでいる。
それまでは順調にしろ苦難の道のりにしろ、
「伸びてきた」こと自体は事実であると自分は考えている。
やってきたこと、その手法に関してはある程度慣れたし、
再度やる時も同じように、もしくはよりうまくやる自信もある。
要するに「慣れた」という耳当たりのいい言葉によって
「慣れた内容」に対しての真剣さを失ったのだ。
「慣れた」部分はその人にとっての基礎となる。
ナメた基礎の上に応用を載せれば崩れるのは明白である。
イチローが念入りにストレッチやキャッチボールを行う理由がそこにある。
デキる社長が部下に「ありがとう」を欠かさない理由がそこにある。
フェラーリが車一台一台に型を作り直す理由がそこにある。
基礎をナメるとどうなるか。
イチローはストレッチ不足で怪我をして伸び悩む。
社長は部下の気持ちが離れていって伸び悩む。
フェラーリはこだわりを失い、スタッフのモチベーションも下がり伸び悩む。
自分はその行動に「慣れて」いるのか、「ナメて」いるのか。
人は日々戦う。戦わないことを選ぶこともできる。
何を戦いと呼ぶかは人による。
とにかく人は戦う。
電電は今までいろいろと「戦い」を作ってきた。
「戦い」と「争い」はここで区別しておく。
争うのは他人と。
戦うのは自分と。
サークルを立ち上げたり、学生サミットを決行したり。
途中であきらめることもできた。
そういった意味で自分と戦ったのかもしれない。
その戦いにおいて時間を共有した人々。
それが「戦友」なのだろう。
旅仲間。飲み仲間。遊び仲間。仕事仲間。同士。
死ぬまでにどれほどの戦友に巡り合えるだろうか。
02 | 2025/03 | 04 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | ||||||
2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 |
23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 |
30 | 31 |
北海道にロボットフィールドを作ろうと日々奮闘中。