さて問題です。
本日は運動会で、現在10人の子供たちが徒競走しています。
彼らの保護者はのどを嗄らして声援を送っている。
徒競走終了後、「彼ら10名の保護者全員」から「歓喜の声」が発せられました。
さて、どのようなシチュエーションが考えられるでしょう?
ちょっと考えてみてください。
本日は運動会で、現在10人の子供たちが徒競走しています。
彼らの保護者はのどを嗄らして声援を送っている。
徒競走終了後、「彼ら10名の保護者全員」から「歓喜の声」が発せられました。
さて、どのようなシチュエーションが考えられるでしょう?
ちょっと考えてみてください。
解答例の一つとして、
「ゴールタイムに応じて順位を決めるのではなく、
小学生個人が自己ベストを更新できるかどうかを競うルールだった」
要は、全員自己ベストを更新できた、ってことですね。
運動会の「絶対評価化」といえるわけだ。
これって実は対戦相手が「クラスメイト」から「過去の自分」にシフトしただけである。
しかしながら、小学生に「自分に勝つ」ということをどれだけ理解して貰えるだろう?
自我を構成するうえで、
まず親との対面、家族との対面、と少しずつ「他人の輪」を広げていき
その複雑なネットワークの中から「自分」そのものを認識し「自我」と成す。
ニュートラルな意味で「他人に依存した自我」となるが、
自らの要求や嗜好、そのほか様々な要素から自らの望むほうへと自我を成長させる。
ただし、ここでいう「望むほう」が「理想的」かどうかは話が別であることに注意したい。
とまぁ、自分を意識することそのものが難しいため
先に述べた徒競走の評価方法が理想的かどうかは一考の余地がある。
仮に自己ベストを更新したからと言って、最下位であれば面白くないと感じる子もいるだろう。
自己ベストを更新できなくても、トップであれば満足してしまう子もいるはず。
これはつまり、視点を変えてしまえばこの方法は「保護者のため」の運動会に
なってしまう可能性をはらんでいる、ということになるわけだ。
もちろん「このまま導入すれば」の話であるが。
前置きが長くなってしまったが、
今日のテーマは「理想的な運動会のあり方」を考えることではない。
「ここぞというところで敗北すること」の意義について考えたい。
イチロー氏の言葉に「勝つもスポーツ、負けるもスポーツ」というのがあり、
まさにこの精神が重要であると電電自身考えるわけだが、
さらにこれを深堀するならば「いかにして敗北するか」の哲学が欠落してはならぬ、と考える。
ここで視点を変えてみよう。
「徒競走という勝負は、走り終わった後に開始される」というものだ。
徒競走の目標を「とある演劇の配役を決定するための手段」と捉えてほしい。
もちろんここでの配役は「勝者」と「敗者」である。
彼らが走り終わった後で自動的に配役が決まり、演劇の幕が開くわけだ。
「勝ち」をどのように演じ、「敗北」をどのように演じるか。
このように考えれば「勝ち」と「敗北」を等価にすることができる。
そういった意味で「どうすれば早く走れるか」にのみ特化した指導は不十分であると言えよう。
どうすれば爽快な敗北を喫することができるのか。
勝ち方ばかりではなく負け方も学んでいいのでは?
ちなみに、この視点に固執すると、結局運動会は保護者のためになりがちであることに注意したい。
敗北の仕方を子供たちに教えたいのであれば、
それを指導する側、背中を見せる側が率先して「爽快な敗北」をして見せる必要がある。
おそらくそれは「引きずらない」とか「相手を称賛する」とか「敗北から学ぶ」とか、
そういった「あたりき」な言葉では、とてもではないが表現しきれぬだろう。
何故なら、上記の言葉は背後に「そうはいっても負けたくはない」という考えがぬぐえないからだ。
「こういう負け方だったら、是非にでも体験したいものだ」
こういえるレベルの敗北を人間は発想すべき、と考える。
実際そういった負け方のテンプレートが地球上には数多存在するので、
これまでに述べた視点でその敗北達を今一度見つめてみたいところだ。
「ゴールタイムに応じて順位を決めるのではなく、
小学生個人が自己ベストを更新できるかどうかを競うルールだった」
要は、全員自己ベストを更新できた、ってことですね。
運動会の「絶対評価化」といえるわけだ。
これって実は対戦相手が「クラスメイト」から「過去の自分」にシフトしただけである。
しかしながら、小学生に「自分に勝つ」ということをどれだけ理解して貰えるだろう?
自我を構成するうえで、
まず親との対面、家族との対面、と少しずつ「他人の輪」を広げていき
その複雑なネットワークの中から「自分」そのものを認識し「自我」と成す。
ニュートラルな意味で「他人に依存した自我」となるが、
自らの要求や嗜好、そのほか様々な要素から自らの望むほうへと自我を成長させる。
ただし、ここでいう「望むほう」が「理想的」かどうかは話が別であることに注意したい。
とまぁ、自分を意識することそのものが難しいため
先に述べた徒競走の評価方法が理想的かどうかは一考の余地がある。
仮に自己ベストを更新したからと言って、最下位であれば面白くないと感じる子もいるだろう。
自己ベストを更新できなくても、トップであれば満足してしまう子もいるはず。
これはつまり、視点を変えてしまえばこの方法は「保護者のため」の運動会に
なってしまう可能性をはらんでいる、ということになるわけだ。
もちろん「このまま導入すれば」の話であるが。
前置きが長くなってしまったが、
今日のテーマは「理想的な運動会のあり方」を考えることではない。
「ここぞというところで敗北すること」の意義について考えたい。
イチロー氏の言葉に「勝つもスポーツ、負けるもスポーツ」というのがあり、
まさにこの精神が重要であると電電自身考えるわけだが、
さらにこれを深堀するならば「いかにして敗北するか」の哲学が欠落してはならぬ、と考える。
ここで視点を変えてみよう。
「徒競走という勝負は、走り終わった後に開始される」というものだ。
徒競走の目標を「とある演劇の配役を決定するための手段」と捉えてほしい。
もちろんここでの配役は「勝者」と「敗者」である。
彼らが走り終わった後で自動的に配役が決まり、演劇の幕が開くわけだ。
「勝ち」をどのように演じ、「敗北」をどのように演じるか。
このように考えれば「勝ち」と「敗北」を等価にすることができる。
そういった意味で「どうすれば早く走れるか」にのみ特化した指導は不十分であると言えよう。
どうすれば爽快な敗北を喫することができるのか。
勝ち方ばかりではなく負け方も学んでいいのでは?
ちなみに、この視点に固執すると、結局運動会は保護者のためになりがちであることに注意したい。
敗北の仕方を子供たちに教えたいのであれば、
それを指導する側、背中を見せる側が率先して「爽快な敗北」をして見せる必要がある。
おそらくそれは「引きずらない」とか「相手を称賛する」とか「敗北から学ぶ」とか、
そういった「あたりき」な言葉では、とてもではないが表現しきれぬだろう。
何故なら、上記の言葉は背後に「そうはいっても負けたくはない」という考えがぬぐえないからだ。
「こういう負け方だったら、是非にでも体験したいものだ」
こういえるレベルの敗北を人間は発想すべき、と考える。
実際そういった負け方のテンプレートが地球上には数多存在するので、
これまでに述べた視点でその敗北達を今一度見つめてみたいところだ。
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